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2014年7月8日(6月合併号)

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またまた更新できずに一ヶ月が過ぎてしまいました。
世間にとってどうでもいいこの場所に、自分の書きたいことを書き続けていますが、
今の僕にとっても、これからの僕にとってもここに書くことが大事だったりすると思うので、
友人に話をするように、ここに文字を打ちたいと思うのです。
今までよりももっと肩の力を抜いて、
話す代わりに文字を打つように、
自然と続けていければと思うのです。

6月は何だかとても不安定でした。
弱い自分をいやという程認識せざるを得なくて、
自分のみじめな姿から目を逸らしたくなるほどに、
浮き沈みの激しい時を過ごしたと思います。

それでも不思議とこれからのことに漠然とした希望と期待を抱けるのは、
不器用に生きてきたこれまでの人生の中で、
共感し、共有し、同じ方向を向いている人たちと身近に出会えてきたからだと思います。
その大切な人たちの存在のおかげで、
僕は「自信」と「自身」を保てているのだと思います。



僕はそんなに人間が出来ていないし、たぶん生き方は不器用だし、自然と人を惹きつけてしまうような魅力もない。
ただ、そんなみじめな自分が存在している価値を、
自分でも納得できるくらいには残したい。

自分には何ができるのだろうか?

という問いは、物心ついたときから散々自分に課してきたけれど、
未だまだわからず。
ただ今は昔よりもずっと頭がクリアなことは間違いないから、
もっともっと世の中をわかっていきたい。
それで、自分の立ち位置をもっと理解したい。

物事をうまく運ぶにはまだまだ未熟で、
自分の感情をコントロールしたり、
相手の立場に立って物事を考えたりが、うまくできない。

抑制するのではなく、次のステップへ進みたい。
抑えつける必要はないと思っている。
ストレスは積極的な行動にかけるべきものだと思うから、
感情や理解を次のステップへ。
その方法はまだわからないけれど、
たぶんそれは方法論ではなくて、
少しずつ鍛え上げる筋肉のようなものだと思う。
年齢と共に、少しずつ太い柱を築いていく。

抑え付けるのではく、自分から出てきたピュアなものを大切にする。
そしてそれを、自分のためではなくて人のために使う。
それが、次のステップなのだと思う。
やっぱり精神が大事。
自分を支えるものは健康な精神だと思う。
精神が腐ったら、すべてが終わってしまうから。

どんくさいなーといつも思う。
いつもいつもわかってることの繰り返し。
突き進んで、失敗して、戻ってきて、同じことを再確認して、また突き進んで・・・
だけどそれが僕だから、僕にしか歩けない道を歩くしかない。
園をグルグル回っているのではなく、
螺旋階段を上っていくように。
中心はズレずに、少しずつ上に、上に。

常に変わり続ける世の中だから、
僕も毎日変わらなければ。
成長しなければ。

そう思って、
7月8日23時18分、現在、
眠りにつく決心をする。

明日も頑張ります。
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by keita-net6086 | 2014-07-08 23:19

2014年5月29日(これまで)

これまで

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3ヵ月ほどここを放り投げていました。
部屋の隅っこに放り投げて洗われないTシャツのように放置してしまいました。
誰に謝るわけではないけれど、
何となく申し訳なかったと言いたくなります。
2年以上継続的に続けてきて、突然3ヵ月放り出したことに大きな理由は無いのです。
人間ってとても複雑で、あやふやで、危なっかしいのだと思います。
でもだからこそ魅力的で、力強くて、情熱的なのだと思います。
今回はそんな感じの話をしたいなと思います。



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PURE



ピュア。
純粋、素直、不純物の無い、混ざり気のない・・・
最近この言葉が妙に気になっている。
事あるごとに僕の触手に引っかかってくる。
たぶん、そのシンプル故の力強さに魅了されているのだと思う。

推進力にかける近頃の自分に与えたい力なのだと思う。
僕は自分に「ノル」時期があるのを理解している。
自分の肉体を惜しまず捧げ、
時間もお金もふんだんに使う。
それが「ノル」時期だ。
そのノッている時期は、とてもピュアでいられる気がしている。
どんどん湧き出る感情によって自分が突き動かされて、
破壊力ともいえる推進力は抑制することがとても困難で、
上手に自分で客観性を組み込まないと、
何かとんでもないことをしでかしそうな、
そういう不安に駆られる程でもある。

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野性的。
そう、そういう言葉がピッタリかもしれない。
何としてでも得たい。
何としてでも実行したい。
そういう「何としてでも」欲する衝動はとても動物的で、
だからこそ、
情熱的で、楽観的で、自己陶酔的なのだと思う。

自分が進んでいると感じられることが何よりも快感で、
違う速度で共に生きている周囲の人たちへの配慮に欠けることもある。
たぶん、それがこのノッている時期のもう一つの特徴で、
その破壊力上に強行突破を図ろうとする。
それが故に自分の快感とは裏腹の他人の反感を買うことも多々ある。
でも、その反感が自分を育てる糧であったりもするから、
決してその破壊力が欠点とは言えない。

要は考え方の問題だと言えばそれまでなのだけれど、
僕は紛れもなく僕だから、
ちゃんと僕でなければ損をするだけな気がする。
それは、自分勝手、自由気ままなのではなくて、
ちゃんと勉強して、ちゃんと考えて、色々な要素を大事にして、
その材料が揃った上で、「僕」が正しいと思う「感覚」を信じる。

PURE

とてもいい言葉だと思う。
「NEUTRAL」とか「PURE」とか、
僕は横文字ばかり好きだけれど、
たぶんそれは「憧れ」という僕にとって純粋な推進力の表れなのだと思う。
もっともっとピュアになれたら、
もっともっとニュートラルになれたら、
そんなことを思ったりもするけれど、そうもがいてる自分の今の生活は嫌いではない。

天才でもないし、何でもチャチャッとこなしてしまう器用さもない。
もういい加減そんなことは理解しているから、
自分のペースで堅実に進めるだけだ。


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さて、この半年間没頭してきた仕事は結果と共に落ち着きをみせ、
これからはその仕事を他人にパスしていくことが仕事になる。
僕はまた、新たな環境づくりをしなければならない。
もっともっとPUREであれる環境づくりを。

そんなこんなで、何だかんだ楽しい毎日を送っている。
ただ、もっともっと幸せを感じることが出来る状況もあるんだろうなと日々思っている。
そういう日がやってくるように、自分なりに堅実に楽しく毎日を生きていようと思う。


久々の更新なので何か沢山「喋っている」気がするけれど、
それもご愛嬌。
また月二回ペースで更新していけたらいいと思います。
次は6月中旬ですね。
ではでは




by keita-net6086 | 2014-05-29 17:10

2014年3月8日(2月合併号)

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3月に突入してしまいました。
三寒四温という言葉をそのまま表したような日々の連続に、
なかなか自分のペースを保てずにいます。
分かっているのにどうもうまくいかない。
そんなモヤモヤを毎日感じていて、どうやったらそれを振り払えるのか模索の毎日です。
たぶんこういう時は大胆な行動というか、決意のようなものが必要で、
楽な方向を模索するのではなく、
むしろどんどん自分に課題を出していっぱいいっぱいにさせるくらいの方が、
僕の身体にはあっているような感じもします。

よっしゃ、やってやろうじゃないか。

そうやって自分が奮い立つ状況を自分でつくる。
そうやって地道にやっていくしかないのですね。
まだまだ全然自分をコントロールできていません。
28年も生きているのに悔しい限りですね。

いつまでこんなことを繰り返さなければならないのか...

と、ふて腐れてもしようがないから、
とりあえず今日、明日やるべきことを整理するのです。







中学生の時、サッカーをやっていた僕は一度だけ大きな怪我をしました。
右足の太ももとふくらはぎを繋ぐ関節の外側の筋を伸ばしてしまい、
一ヶ月間走ることが出来なくなってしまったのです。
当時、中学2年生だった僕はレギュラーとして試合に出場していたけれど、
その怪我によって1ヶ月の間僕のポジションをチームメイトに明け渡し、見守りました。
ボールを蹴れない以上、僕はサッカーができないと思っていました。
しかし、すぐにその考えが間違っていることに気が付きました。

ボールがなくたって、サッカーはいくらだってできた。

そのことに気づいたとき、僕のやるべきことは明確になりました。
普段おろそかにしていたウェイトトレーニングに打ち込み、上半身を鍛えました。
あるいは、試合や練習を客観的に見ることで、分析力と問題解決力が身に付きました。
今ここで述べていることを当時から今ほどきれいに整理できていたわけではないけれど、
そういうことを明確に感じた瞬間をはっきりと覚えているのです。

それは、怪我から復帰した最初の紅白戦でのことでした。
控え組で出場した僕はレギュラー組の僕のポジションにいるチームメイトとマッチアップすることになったのです。
試合が始まって間もなく、自分の変化に自分で驚きました。
申し訳ないほどに、レギュラー組のチームメイトが小さく見えたのです。
それは、「僕が怪我をしていた1ヶ月間、何をやってたんだ?」
と思ってしまうほどの驚きでした。
彼は間違いなく毎日僕の目の前でサッカーをしていたし、
試合にもレギュラーとして出場していました。
その彼が、この1ヶ月の間に実力を落とすはずがないから、
たぶんこの感覚は自分がこの1ヶ月の間に成長できたことの証なのだと感じることが出来たのです。
そしてそれは、僕自身の驕った感情に頼ったのもではなく、
前半終了を以て僕がレギュラー組に復帰したことを考えれば、
この一カ月の間にできた僕と彼との差は、監督の目にもはっきりと映っていたのだと思います。

この経験が、まだ13〜14歳の記憶が今でも僕の内側に息づいているのは、
それほど価値観の揺さぶられた証拠なのでしょう。

大事なのは「幅」

だと、体で理解した瞬間だったのです。
ボールを蹴るだけではダメ。
筋トレをするだけではダメ。
走るだけでもダメ。
考えるだけでもダメ。

大切なことは、
全ての経験を「糧」にすること。
自分の生きた1分1秒を糧にすること。
サッカーが上手くなりたかったら、
料理が上手くなりたかったら、
絵が上手になりたかったら、
良い先生になりたかったら、

全ての経験を無駄にしない覚悟を持つこと。

それに尽きるのだと思います。
疲れると、未だに痛む右足の筋が僕を戒めるように、
常に前進と変化を求める僕の人生の若かりし時代の上で、凛々しく立っています。



事実になる



とは、言葉や行動を発するという自らの能動的行為を以て完了するのではないでしょうか。
発するという行為はあくまで能動的行為であって、自らの意志があることが基本原理になる。
一方で情報は否応なしに自分の内側に絶え間無く侵入してきているから、
それはとても受動的で有意志に関わらず自分の内側にどんどんおさまっていってしまう。
私たちは、その莫大な量の情報を整理する間も無く内側に蓄えていっている。

「声を出して読みましょう。」
「話してスッキリした。」

というのは、あまりにも多くの情報に困惑してモヤモヤしていた自分に、明確なヒントを提供するということだと思う。
前述したように、自分の意志ののった行為を通すことで、初めて事と自分が向き合い実を結ぶ。
事を世の中における事実として見ることで、
自分でも、こんなこと思っていたんだ。
自分ってこんな人間なんだと再認識することになる。
黙っていては事は実を成さず、本当に何も始まらない。
事と向き合うために自分の内側から発ることで、事を世の中に出してみる。
世の中に出した時に初めて事実となる。
そうやって少しずつ事実を積み重ねるために、

発する。

これ、大事だなーと寝てて起きかけの時に思ったので、急いで書き綴りました。笑
自分で、俺は何を考えながら寝てんだ?
とおもいました。



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丸くなる



丸くなるっていうのは、角をすり減らしていくことではなくて、寧ろ角を増やしていくことで多角的になることだと思う。
角を増やし続けて拡張的に円を描いていけるなら、それは良い人生を送れているということかもしれない。
たぶん僕はそういう生き方だと思う。
4角形が5角形に。
5角形が6角形に。
今、僕は何角形くらいだろうか。
もっともっと角を増やしていかないといけないだろうな。





2月合併号はこの辺りで。
3月はちゃんと前後半で記事を更新できたらな、と思います。
それではまた次号。
ではでは
by keita-net6086 | 2014-03-08 08:21

2014年2月11日(1月合併号)


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新年一発目、1月の更新は遅れに遅れてしまい、歯切れの悪いスタートとなりました。
2月に入り寒さも増す中で、ふと自分を俯瞰してみることが多くなったように感じます。
1月前半はどおにもダメでした。一度正月にオフしてしまったエンジンを再び暖めるのにはそれなりに時間が必要だったようで、
1月の終盤にきてやっと自分の苦労を託つのを止めて、
僕の意志とは別のところでやるべきこと、やらなければならないことと向き合えるようになりました。
つまり、自分の日々の活動の純度が精神的にも、その環境における客観性をもった効果としても、高くなってきたようなのです。
濁りに濁っていた僕の頭のなかは、体を動かし、血液を循環させることで透明度を増し、体も目も冴え渡って来ていることが実感できます。
しかし、2月に入るとまた少しそのペースもゆったりとしてきて、
月の初めはどうにもうまく頭と体が繋がらないことに、悶々としています。
こういう時は、諦めて好きなことをやったり、
映画を観たり、思いっきり寝てみるのも一つの手で、
その反動で、自分の溜りに溜まったエネルギーを開放するのが一つの手です。
3、4月はどう考えたって忙しくなる。
2月の落ち着いている今の時期から徐々に集中力を高めていかなければ、
世の中全部に置いてけぼりを食らってしまう。
今の職業柄、それは許されないなと気は引き締めていかないとなりません。
2月も残り半月ですが、更なる飛躍に向けてヘトヘトになるまで精一杯やってみようと思います。


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まず、やってみる。



こんな当たり前のことを何度口にし、何度行動に移してきたことでしょう。
それでも尚、この行動理念は僕を裏切ることはありません。
まずやってみて、失敗してみることが大切で、
成功というか達成度の高い働きはその失敗の質によって支えられるのだと、最近はつくづく思うのです。
とりあえずやってみて、失敗してみる。それをもとに改善を繰り返し、到達度を上げる。
そして、それを体系化して客観性に落とし込む。
この過程を経てやっとその仕事や課題から離れることができる。
最近はこれの繰り返しです。
こういった仕事はただ馬車馬のようにさっさとやればいいというだけではなく時間をかけることも大切で、
寝かせて、馴染ませて、それがある程度効果を発揮するのかどうかを判断する必要があるのです。
行動を起こさなければ何も起こらないという当たり前のことに気づくのに、僕たちはどうにもこうにも苦労します。
何度も何度も自問自答を繰り返して、
成功も失敗も繰り返す。
常に変わらないことなんてなくて、
どんなにプロフェッショナルと言われる人たちでもそれは同じで、
試行錯誤の繰り返し。
野球選手は打率三割で一流打者ですから、元々30%くらいの成功率で優秀と思わなければやってられませんね。
70%の失敗で成功を支える。
とにかく失敗してみようという感覚で前に踏み出す。
それくらいの気概と大胆さが前進するには必要なのですね。
そんなことはもう十分に知っていますね。
大事なのは感じることですね。
レイチェル・カーソンの言葉です。



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あの絵を描いてから、もう一年が経つ



ちょうど一年前の今頃は、絵の具まみれになって卒業制作の絵の仕上げにかかっていたっけ。
今は毎日仕事しているけど、
当時は何週間も仕事を休んで、絵を描くとに没頭していた。
あの時、一年後に今のような仕事に没頭する自分は想像できなかったし、
そんなことを考えようともしなかった。
あの時は僕にとってあの絵を完成させることが大事で、
これを完成させれば、この後の自分の人生が開けるような感覚があったから、
あの時は絵の事しか考え無かったし、
これが終わったら次はこれ。
なんて要領の良い計画も立てていなかったから、これからどうなるのかわかっていなかった。
そういう危機感と同時に大胆さと自身を持っていたから、
不思議と全く不安はなかった。

あの絵を描き上げてから、色々なことがあった。
あの絵に価値観を動かされ、その気持ちを誠実に伝えてくれる人たちの存在が、
価値のある仕事が出来たという自信となって僕を今でも支えてくれている。
その自信を手に入れてから、
僕はこの一年まっすぐ歩いてくることが出来た。

春には須藤さんの畑に頻繁に通うようになって、
農産加工品をつくって売ることになり、毎週のように相模原へ通った。
毎週のように経験した新鮮な感覚は、人間の間で働く自分に一種の違和感を与えることもあったけど、
一方でそのことを愛おしく感じることもあった。

6月にはフリーランスとなり、
飲食店と契約して自分の質を試されるような仕事をするようになった。
自分の感覚を信じて、
大胆な行動もとった。
ガムシャラに進んで、心も身体もボロボロになると、
畑で土に触れることに多大なる価値を感じたりもした。
そうこうしている内に、自分のしてきた仕事に結果が伴り、成果を出した。

そして、
その自信が裏目に出る出来事があって、仕事の環境を変えることにした。
それからというもの、予想以上の仕事量が自分に圧し掛かり、
畑に足を運ぶこともできなくなった。
このブログの更新すら、区々になってしまった。
でもこの仕事をして得られる充実感だけは僕を支えてくれる。
不安も沢山あるけれどまだ自分を信じることが出来ているし、
少しずつ芽生える成果を発見したときは、
畑で小さく実り始めた野菜を発見した時のような喜びもある。

あっという間の様で、色々あった一年だった。
この一年を振り返ると、
この先一年も凄く楽しみになってくる。
そういう風に感じられるだけで、たぶん幸せなのだと思うから、
また色々とがむしゃらになって頑張ってみようと思う。


あの絵は、僕自身に価値のある仕事を示したから、
今を支えてくれているし、自分のこの先も導いてくれる。
そういう価値ある仕事をずっと続けていこうと思う。




by keita-net6086 | 2014-02-11 09:16

2014年1月6日(12月合併号)

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明けましておめでとうございます。
結局12月年内の更新もままならず、年を跨いで、正月もゆっくり過ごしてからの更新です。
何だか年始早々にこういうことを言うのも少し気が引けるのだけれど、最近は上手く自分を動機づけることができていないのです。
仕事がある程度自分の思い描いたように上手くいき始めたので、まだまだ取るに足らないレベルにも関わらず中弛みというか、
少し余裕ができたように、できることをやらない、やりたがらないで後手後手に回ってしまう自分がいるのです。
狭い範囲での自分の成果に満足している自分がいるのです。
これは自分の成長を妨げる類いのもので、
早く今の状況を打開しなければならないと、僕の内側は忙しなくモヤモヤが渦巻いています。
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自分の不満とか、うまくいかないことを少し前までは人のせいにしがちだったけど、
人は自分を写す鏡だと思えば、人の僕に対する接し方が僕自身に対する答えであって、
不満も失敗も自分の責任だと覚悟を決めることができるのです。
僕の姿が人をそうさせることに気が付きます。
「俺ってこうしたかったんだ。こんな人間だったんだ。」
と人から教わることができるのです。
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自分を一番理解しているのは自分だ。
これはあながち間違ってはいないと思うけれど、このことに固執してしまうと自分を見失ってしまいます。
自分を良く生かしてあげなければならないのは間違いなく自分だけれど、
そのヒントはちゃんと他との繋がりの中から見出さなければならないでしょう。

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今年の初詣は、
僕以外に参拝者の見当たらない、実家から一番近いところにあるボロボロの神社でした。
小さな頃から馴染みのあるこの神社が、
何故か今年の初めに訪れるべきところだと思ったのです。

今年はもっともっと素直になれるように。
もっともっと気持ちのいい人間になれるように。
今までのすべての経験が報われた人間であれるように。
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占いの好きな母親が、
「あんたは今年は花開く年だって。」
と何気なく言った一言に背中を押され、そのイメージを温めています。

間違いなく、僕は才能溢れる人間ではないから、
花が開くのは若い内ではないと確信していました。
そのことにふて腐れていたわけではなく、
さっさと輝かしいステージは諦めて、努力して、勉強して、
何とか少しでも価値のある人間になろうと決めていたのです。
その僕が花開くというのはどういうことだろうと、今はそのイメージを温めるのです。

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世の中から沢山刺激を受けて、ピンとくるもの来ないもの、感動するものしないもの、興奮するものしないもの。
そんな振り分けを何回も経験することでわかってくる、自分にとって大切なこと。
そして、こういうことを大切にしたい人間なんだってことを客観的に理解することが重要です。
だから、自分にはできるだけ幅広い経験を与えた方が、自分で自分を理解できるようになると思うのです。

僕にとって、はじめて歩く道はただそれだけで価値があります。
知らないというだけで、多大なる価値がある。
だから、知らないことを知った時、28年と5ヵ月生きた僕から湧いてくる感情を大切にしようと思うのです。
それが、たぶん今この歳でしかできない行動や経験の幅を広げるし、今後の人生において掛替えのない程の価値のあることになるのです。
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自分の感情を記号化しないよう、丁寧に扱うことを心がけます。
たぶん、サービス業が溢れ替える中であまりにも記号化されたものばかりを僕たちはみるようになりました。
そのことが原因で、複雑さを豊かなものとして受け入れるのではなく、面倒なものに陥れてしまいがちです。
絵を描くと、世の中の僕たちが普段目にしているものの複雑さに面食らうことになります。
空は決して「青」ではないし、マクドナルドの看板は決して「赤と黄色」ではないのです。
僕たちの周りにはあまりにも複雑で、あまりにも綺麗なものたちが溢れています。
そんな世界にいるのだと、十分認識して、
単純化することばかりに終始しないよう、バランスをしっかりとっていきたいと思います。
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年の初めにここに綴るのは、やはり今年の意気込みだけれど、
リセットではなく、ずっと繋がってきた流れの中での再確認。
今年はこのブログももっとしっかり進めていけたらいいなと思います。

12月合併号はこの辺りで。
この1月からしっかり更新していけたらと思います。
ではでは
by keita-net6086 | 2014-01-06 15:08

2013年12月10日(11月後半)

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寒さが日に日に増していって、
秋らしい表情を見せていた色鮮やかな植物たちも、いよいよ冬を耐えうる準備を整えたかのように、
静かな凛とした表情をしています。
そんな中、僕は乾燥注意報が出されたその日にまんまと体調を崩し、
それでも体を休めることが出来ない毎日を、騙しだまし過ごしています。
時間に対する感覚が、
以前よりもずっと「事実」として感じられるようになってきて、
寝る時間も、働く時間も、それ自体がそれぞれ独立した時間としてあるのではなく、
全てちゃんと僕の生きている時間として、流れていることを感じるのです。
何が起こっても、
どんな思いをしても、
それはちゃんと僕の生きている時間の上で起こっていて、
誰のせいにするわけでもなく、ただただ事実として全ての時間を受け入れられる感覚を持つのです。



縄文杉



昔はもっと、人のせいにすることで自分を守っていたから、
ある意味楽だったと思うのだけれど、それで精神的に満たされることが無かったから、
何となく毎日がつらかった。
楽な方を選択すればするほど、精神は追い込まれていくという矛盾の中に身を置いていた。
結局は自分で責任を取ることが、大変なようで一番自分の精神を支えてくれたのです。
責任を取るとは、自分の費やす時間を全て自分の時間として認めること。
「会社が何時に来いって言ったから」でも、「誰々がこう言ったから」でもなく、
自分の時間は全部自分の時間として無駄にしない。
何をしていても、自分の生きている時間として価値をもたせる。
それが責任を取るということであり、
その上であれば、全てが自分の人生の時間の上に起こる「事実」になる。
虚栄、虚無に食われることなく、
実質的なものを肌に触れて理解する。
そうすれば、矛盾に苛まれることもない。
自分の行動と精神が一致して、互いにバランスを取りながら進んでいける。

どうしたって、
自分の生きる時間は人のせいにはできないのだから、
そんなものはできるだけ早く捨ててしまった方が良いのです。
もっともっと若いうちに、僕も捨てることが出来ていたら、
今とは少し違う人生を送ったのかもしれないけれど、
この思いは後悔ではなくて、教師になる自分への教訓なのです。
僕が今まで過ごしてきたかけがえのない時間をリセットしたいなんて1ミリも思いません。
ただ、教壇に立つときには心がけようと。
向き合う子どもたちには、学校に来る時間も塾に行く時間も、
全部自分の時間として、無駄にさせない。


人のせいにしない。


出来るだけ早くそのステージへと導いていこうと思うのです。
たぶんそのことに、年齢は関係ないから。
幾つになっても、人のせいにして止まない人を目にするし、
幾つになっても、責任を放棄してばかりの人を目にします。
だから、年齢は関係ない。

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僕は、屋久島の縄文杉を見に、ヒッチハイクで鹿児島まで行った時、
その重要なヒントを得たように思うのです。
ヒッチハイクなんかしていると、それはもうすべての事が自己責任。
前に進めないのも自分のせい。
車を止められないのも自分のせいなのです。
時間と、自分の行動と、結果が事実としてリアルに直結し、
その実質から逃れられない。
その状況に身を置いていると、自分の立ち位置がありありと理解できるのです。

「あのドライバーさんは俺の事どう思っているのかな。」
「あのおばさん、凄く嫌な目で俺のこと見ていたな。」
「もう少し、清潔感ある恰好をしよう。」
「とにかく笑顔は忘れないようにしよう。」

自分1人では何もできない、自分の頭の中だけでもうまくいかない。
ちゃんと、同じ時間を生きる人たちや「事実」と一緒に生きていくことを覚悟しないと何もうまくいかない。
そんなことをヒッチハイクの旅では感じることができたのです。

あれからもう8年近く経つけれど、
あの時、あの年齢で、許される限りの幅のある行動を決断して良かったと、
自分良くやったと素直に思える自分がいます。
それぐらい価値のある時間でした。


今は恐ろしいくらい、自分の時間が自分のもので、
自分の吸う空気にも価値を見いだせるほど、実質的なものと寄り添っています。
特に大きな理由もなく飛び出して、息をきらしてやっとたどり着いた縄文杉を見たあの一瞬。
僕の人生の中のあの一瞬。

「今、この瞬間が一番重要なんだ。今、この瞬間ここから変わろう。」

そう思った掛け替えのない経験でした。




だらだらと書き綴ってしまってまとまりのない内容ですが、
まあいっかってことで11月後半はこの辺りで。
今、追われている仕事を年内には片づけて、
年明けにはこの場所とももっと落ち着いて向き合えたらなと思います。
それではまた一週間後に。

ではでは。
by keita-net6086 | 2013-12-10 12:04

2013年10月12日(9月後半)


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言い訳するまでもなく、9月後半の更新を10月の中旬にさしかかって更新する始末です。
この言い訳は後程することにして、季節は本格的に秋を迎えようとしていますね。
夏の青々とした葉の色は表面に薄く黄色を纏うように、
艶やかな表情を見せ始めています。
秋は女性の季節と言わんばかりの、
しっとりとしていて、慈愛のある、
夏よりも内側からの温かみを感じる季節ですね。
昔よりもすべての季節に寛容になって、
あらゆる変化をもっと繊細に自分の中に吸収することが出来るなら、
たぶん自然とそれは表現の方にも還元されて、
豊かな影響力を持てるようになるのかなと思います。
気持ちも、外に出すより内側で温めることが多くなるこの季節、
月をだいぶ跨ぎましたが、9月後半の更新です。



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ダメな時間



先に述べたように、更新がこれだけ遅れた理由を言い訳をさせてもらうと、
職場が変わるにあたって1週間ほどの休みを過ごしていました。
この有り余る時間に僕がやろうと決めていたのは、徹底的にダメな時間を過ごすこと。
否が応でも考え、実行し続けなければならない時間をこれから過ごすことになるので、
その日々が始まる前に徹底的に力を抜こうと決めたのです。
仕事のことも、ブログのことも何も考えず、
子どものような時間を過ごす。
それがしたかったのです。

フリーランスとして働いていて、自由というものがそれなりに大変であることを認識すると、
如何にして自分のペース造りを確立するのかが重要になってきました。
自分のお尻を自分で叩かなければいけない状態が毎日続くのです。
そうやって「時間」というものに対して繊細な意識を配っていると、
僕が持っている時間には、本当に色々な時間があることを認識しました。
その中でも「ダメな時間」は底辺に合って、
底辺にあるからと言って、避難されるべき時間ではなくて、
他人や、それ以前に社会性を持った自分の意識が

「何やってんの?」

という感情を抱くような、理解され難い時間であるというだけです。
「ダメな時間」は社会に理解はされ難くも、実は僕の持つ様々な時間の中で底辺を支える大切な時間なのです。
中々大切にしてあげられないから、僕はこのまとまった休みの間に「ダメな時間」を大切にしようと決めたのです。
子どものように、赴くままに、考える前に動き出すような、
突拍子もない時間。
「気持ちいい」ことを優先し、
純度の高い自分の気持ちを確かめる。

そういう時間に9月末から10月頭を当てることが出来ました。
今回は難しい事なしです。

ダメな時間に日光に行ってきました。
旧友とサッカーをしたり、海に行ったり、飲んだり、釣りをしたりしました。
良い時間を過ごせました。
さあ、ここから再スタート。

うしっっ!!

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by keita-net6086 | 2013-10-12 15:06

2013年9月22日(9月前半)

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夏の暑さが落ち着きをみせはじめ、
半袖一枚での外出に抵抗感を持つようになってきました。
季節との付き合い方が、年々知識と経験をもとに上手くなってきていると思うのですが、
良く生きる方法とは固定化されるものではないので、
毎年違う夏、毎年違う冬と、毎年違う自分を呼応させなければならないのです。
そう考えると、重要なことは「方法論」ではなくて、
年々、知識と経験を積み重ねる自分を自画自賛する事でもなく、
如何に成長してきた自分が柔軟であれるのかということです。
9月前半は僕にとって変化の時でした。
考える時でした。
それは「苦しい時間」ではなく、おそらくこれからの僕にとっての大きなチャンスの時間なのです。
自分なりに考え、それを理解ある大切な人たちに聞いてもらい、
僕と周囲の人達が一緒になって「正解のない答え」を導く。
そして、それに対する純度の高い行動を心がけるのです。
9月は10月以降の変化に対する準備の時期となりました。
そんなこの時期に感じたいくつかの事を綴ります。
9月前半の更新です。



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重要なことは自分の外にある




僕は小学校1年生の頃にサッカーを始めました。
僕が人生で初めて一生懸命打ち込んだ、向上心を持って努力をしたものがサッカーだったと思います。
世界に浸って、面白いものだけを拾い上げて享受していた時代にサッカーが終わりを告げたのです。
それからというもの、サッカーというものに打ち込むことで自分を支えてきました。
先頭に立ってチームを引っ張り信頼されることもあれば、
その責任感が裏目にでて、人とまともな付き合い方が出来なくなることも多々ありました。
サッカーからは本当に様々なことを学びました。
1人でもボールを蹴れること。
11人じゃないとサッカーが成り立たないこと。
その間に僕はいたのです。
当時のチームメイトには申し訳ないと思いつつ白状してしまうと、僕にとって試合の勝敗はどうでもいいことでした。
もちろん、チームが勝てば嬉しかったし、負けてしまえば悔しかった。
涙を流すくらい、感情を揺さぶられる勝敗も多々あった。
しかし、それを認めた上でも大事なことは「勝敗」に無かったのです。

残念ながら、今では誰かとボールを蹴る機会はもの凄く減ってしまっているし、
ボールを蹴りたいという意識的な欲求もほとんどありません。
ただし、無意識の中で体がボールを蹴りたがることがあるのです。
のどが渇いて、水分を欲するのと同じように、
身体がボールに触れることを望むのです。

身体を使って世界を知るという経験は、たぶんサッカーが教えてくれたのです。
真冬に空気のパンパンに入った固いボールを蹴ると、足首が折れてしまいそうになるほど痛みが走ること。
真夏の焼けるような校庭の上で走り回ることの、残酷なまでの辛さ。
雨の日の試合では、ボールや自分の足に接着剤が付いたように動かないこと。
風の日の試合では、信じられないくらいボールのコントロールが利かなくなること。
これは、サッカーでの出来事ではないのです。
サッカーを通して知ることのできた、世の中の、世界の出来事なのです。

今、この僕の身体が求めるボールの先にあるのは、
自分意識的欲求を充たすものではなく、
たぶん、世界の出来事や理を体が確認したがっているということだと思います。
僕たちの身体は、僕たちの意識の持ち物ではなくて、
世界と同化するべきものですから、必然的にその秩序を確かめたくなるのだと思います。

大事なことはいつでも僕たちの外側にあるのです。
このくらいの力で蹴ると、ボールはこのくらい移動するんだ。
足のここに当てると、しっかりボールは上に上がるんだ。

こんな確認作業を繰り返すことが、
きっと大切だったりするのです。
サッカーやスポーツとは無縁の生活をしていますが、
今でもあの時培った、身体感覚が僕を支えています。
それは、世界と繋がって良く生きるためのヒントでもあるのでしょう。




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わからない




1年半後に教師になるイメージを具体的に沸かすようになりました。
教師になって具体的に何をするのか。
その時、生徒や両親の前で何を話すのか。
多くの難題に困り果てる自分が容易に想像できるのです。
その時に、いかに説得力を持って教師という存在でいられるのか。
そういう難しい課題に希望を与えるのは、
「わからない」ことを認め、それでも尚生きることに充実感を得る自分自身の姿でした。

小さい頃、
暗闇をじっと見つめ、
その奥に何があるのか、
恐怖心と不安が転じて好奇心となり、
いつの間にかそれは、世界に対する敬意のようなものになっていたのです。
あの頃の、あの感覚が、きっと僕が教師になるにあたっての重要なヒントを持っていて、
「わからない」ことが尊いことだということを、僕に教えてくれるのです。

1人の人間が、一生の間に知りえることなど微々たるものではないでしょうか。
大人になるにつれて、経験や知識を積み重ね、
「わかった」気になって、「わからない」ことへの敬意を欠く。
そのことで、世の中に対する感性が鈍くなっていくのではないでしょうか。
闇はイメージの余白であり、僕たちの世の中に対する敬意や畏怖の的だと思うのです。

全てを知り得ることほどつまらないことは在りません。
「わからない」
そのことに思う存分甘えようと思います。
子どもたちとともに僕の歩く道は、きっとそこにあるのだと思います。




感謝を




友人と話をしていて、
教師になる僕は、人の前に立つ職業なのだと改めて考えさせられました。
その時、もっともっと魅力的な人間にならなければらないと思ったのですが、
それはどうも利己的な意識が強くあ利すぎるとも思いました。
たぶん僕がこれからすること、いやより大切にすべきことは、
憎悪や恐怖心を捨てることだと思います。
それが敵でないものまで敵にしてしまうのだと思うのです。
自分の感情にどんな波が立っても、
それが考える糧になったり、
それを乗り越えることが生きるヒントになるのであれば、
やはり感謝に変えるべきだと思うのです。
でも、頭でっかちになるのだけは避けたい。
気持ちいい人間が一番ですね。
まだまだそれには、遠い気がしていますが…





9月前半はこんなところで。
本当に涼しくなってきて、あっという間に秋から冬へ。
その変化を楽しんで過ごせたら良いと思います。
それではまた9月後半で。
1週間後ですが。笑
ではでは
by keita-net6086 | 2013-09-22 16:06

2013年9月3日(8月後半)

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暑い日が続きますが、夏が終わりを迎えるように日の入りの時間も随分と早くなりました。
夕方には涼しい風が日に焼けた肌をよく冷まします。
8月は、個人的に活発に動く時期だと考えていたのですが、
振り返ってみると、動きは静かによく頭を動かした時間だったように思います。
調理師試験とその勉強があったのが影響しているのでしょうが、
僕はもっともっと多くの事を知らなければならないし、
もっともっと多くの事を経験しなければならないのだと再確認した時間でもありました。
僕がフリーランスとして働く決断をしたのも元々はそのためのもので、
制限あるこの時間を精一杯大切にしなければ、
自分の決断に対して、自分と関わる多くの人に対して申し訳が立たないのです。
フリーランスとして過ごした3ヵ月。
この短い期間の間にも様々な学びがあって、
充実した結果を得ることもあれば、
納得出来ない気持ちをごまかす自分の弱さを感じることもありました。
だけど、良いも悪いもすべて先へと繋げなければ、
自分の価値のある行動に乗っかっていきませんから、
下を向くことなく、柔軟にすべてを受け入れる強さが必要なのです。
色々な意味で良い時間を過ごせたのではないでしょうか。
既に始めっている9月に、良い波を立たせたい。
その為には、やはり丁寧に毎日を過ごすことしかないでしょう。
仲間とキャンプに行ったので、月を跨ぎましたが8月後半の更新です。



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始まりが大切



良く寝て、良く食べて、良く考えて、良く働いて…
それだけが、良く生きることと言える気がしています。
僕は誠心誠意1枚の絵を描くと決めたとき、全身全霊で信じられるものを描きたいと思ったのです。
僕にとってのそれは、木だったり、水だったり、火だったりするわけですが、
それらは世界の「理」そのもので、嘘が無いということに絶対的な信頼感を置くことができたのです。

ある時実家でテレビを見ていたら、睡眠障害解消方法を紹介する番組が放送されていて、
その番組内では睡眠のメカニズムも丁寧にわかりやすく説明されていました。
睡眠のメカニズムは、要は睡眠ホルモンと言われるメラトニンの分泌に大きく左右されていて、
そのメラトニンを如何にうまく分泌させるのかが重要だということでした。
そして、そのメラトニンの分泌において重要なことは、まず一日の始め、それも朝の早い段階での朝日をしっかりと浴びるということだったのです。
朝日を浴びてメラトニンの分泌をスタートさせると、14~16時間後には蓄積されたメラトニンによって睡眠に入るようなのです。
つまり、一日の終わりは始まり方で大きく左右されるということです。

また、別の話をすると、
これは調理師試験の勉強中に妙に関心が沸いた部分の話なのですが、皆さんは「初乳」というものをご存知でしょうか?
初乳とは、要はお母さんの母乳のことなのですが、母乳の中でも最初の最初、生後数日間の間だけ分泌される母乳のことを言うのです。
この初乳は新生児にとって人生の一番最初に口にする記念すべき栄養であって、
それはその後に分泌される通常の母乳よりも圧倒的に栄養価が高く、様々な免疫的効果を新生児に与えるものだと言います。

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何故、わざわざこんな話を引っ張り出すのかというと、
「始まりが大切」という前に、
たぶん「人はそれぞれ」という当たり前の価値観の主張に、
いい加減うんざりしてきている自分がいるからなのです。
色々なものに触れ、より深く勉強しなければならないことに少しずつ気が付くと、
「人はそれぞれ」という主張ではなくて、生き物としての共通点とか、
感覚的な共通分母の部分をもっともっとこ大切にしていかなければならないのだと強く思うようになってきたのです。
たぶん、「人は~」って主張したがるのは、社会や大人に対する反発心だけが先行した結果でしかないのだと思う。
少なくとも、これまでの僕はそうでした。
今は、大切なことは「共有できる」ことだと思っています。
「共有できる」ということは、前衛的で、刺激的で、
思わず圧倒されてしまうような動的な力強さではなく、
生物的な慈愛があって、寛容で、感覚的である静的な力強さだと思うのです。

僕たちは生き物としてのリズムと上手に付き合って、良く生きることが「幸せ」ということなのではないでしょうか。
精神を鍛えるとか、自立するとか、
そうやって人間社会に対しての適応力を増すばかりでなく、
生きることに関心を持ち、生き物としての自分を理解することがもっともっと必要なのだと思います。

だから、「始まりが大切」なのです。
先に述べた2つの生き物としての話が、僕たちの良く生きる方法を示しているように思います。

始まりを大切に。
そして、それと繋がる今を大切に。

「 Make it count 」

映画「タイタニック」でジャックの言うこの台詞が、僕は大好きです。



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今はとにかく感謝を



僕が「考える」ことの糧は、感情を揺さぶられることです
これが一番の糧であることは間違いありません。
身体感覚と言語感覚の間にズレが生じれば生じる程、
それをすり合わせるように僕の脳は動きます。
おそらく、感情というものは理屈で捉えられるようなものではなくて、
突然自分の中に放り込まれるウイルスのような存在で、
それに対する免疫があったり、なかったり、
どちらにしろその感情が発端となって身体感覚と言語感覚の間にズレが生じる。
この修正作業が僕の「考える」というものなのだと思う。

今はどんな感情が投げ込まれ、どんなに僕の内側が荒波を立てようと、
「考える」きっかけとなるそのことに、感謝はするべきかと思っています。

僕は今、自分はそういう時期にいると考えているのです。



8月後半はこの辺りで。
28歳を迎え、だんだんと「わからないこと」の重要性を認識しはじめました。
これは良い事なのだと思います。
9月に何が起こるのか。
それを楽しみに、丁寧に過ごします。
それではまた、9月中旬に。
ではでは
by keita-net6086 | 2013-09-03 20:39

2013年8月26日(8月前半)

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調理師試験の勉強を言い訳に、8月前半の更新を先延ばしにしてしまいました。
書きたいことが沢山あるのに、文字に起こす時間を優先的に考えられず、
借金を背負ったような気分でこの10日間ほどを過ごしてきました。
それくらいこの場所が僕にとって重要な位置づけにあって、
日々徐々に乱れる呼吸を整えるような、
自分が向かうべき場所を再確認するような、
そんな場であったり、時間であったりするのです。
試験を終えて、やっとこの場と向き合うことができました。
既に8月も終盤というこの時期ですが、8月前半の更新です。



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あの時聞いた言葉



ある日の真夜中。
自転車でいつもの道を、いつもの時間に走っていた時の事、
ふと、20代になりたての大学3回生の頃を思い出しました。
何故このタイミングでそういった場面を思い出すのか全く見当もつかぬまま、
その時のことを頭の中で思い巡らしたのです。
それは、僕が家路につくほんの10分かその程度の時間の話です。

僕が思い出したのは、六本木で行われた若手企業家による啓発セミナーの事です。
なぜこの企画に参加したのか、その経緯は何だかうまく思い出すことが出来ません。
しかし、このセミナーの時の10畳程の会議室の雰囲気、集まった大学生たちの醸し出す空気感、
若手企業家の本意の掴めぬ口調などを今でも明確に覚えているのは、
幸か不幸かこの時間は、僕にとって価値のあるものだったということなのだと思います。
このセミナー自体は、可能性豊かな若者にお勧めしたくなるようなものではありません。
法に触れるようなことをしているわけではないのは分かるのですが、
ちょうど、社会というものをリアルに感じ始めた時期の若者に「チャンス」を与えると言って、
その若者達の持つ自分や社会の未来に対する「期待感」を利用しようとするような感覚を覚えたのです。
少なくとも僕にはそう思えました。
なぜなら、彼らの目は対等ではないというか、少なくとも「僕たち」を見てはいませんでした。
僕たちを見る前に、彼らの目は僕たちの持つエネルギーだけを見ていました。
僕がそれまで多くの人に育まれ、僕自身も育んできた「僕であるという土壌」に彼らは目を向けず、
その土壌の中で際立って表出した、光り輝く芽だけを摘もうと考えているようでした。
そんな彼らに僕は全く魅力を感じることは在りませんでした。
むしろ、「なぜこんな魅力に乏しい人たちが成功しているのだろう?」って、
そのセミナーに参加しながら、僕は少し客観的にそう思っていたのです。

あの時の1人の若手企業家の言葉を今でも思い出すことがあります。
「わかってて動かない奴と、わかんなくて動かない奴、どっちがダメだと思う?」
という言葉です。
当然彼は「わかってて動かない奴」がダメだと堂々と語りました。
当時は感情的にしかそのことに対する反発心を抱くことしかできませんでしたが、
今でさえやっとその時のことに、

「どっちがダメでもない。」

と冷静に応えることができるのだと思います。
その若手企業家は何を持ってそう述べたのかはわからないけれど、

そんなに単純じゃない。
生きるのはそんなに単純じゃない。

と今ならそうはっきりと言いたいと思うのです。
これは当時の自分に後悔の念を抱いているわけではなく、
今僕が向き合っている多くの力ある大人たちにそう言いたいのです。
やはり、世の中に対する積極的なアプローチはお金稼ぎではないと感じています。
お金はただの副産物であって、本当に大切なことは出た芽を育むことだと思うのです。
みんなで「教育」をしよう!
と言いたいのではありません。
そういう姿勢が、最も積極的な世を良くするための施策だと思うのです。
その立ち位置にいると、
確かに今は生きるのに苦しい社会なのかもしれません。
子どもに目を向けられない精神構造を育んでしまうのだから。
大犯罪を犯した少年は「母に愛されてなかった」と、そう言ったそうです。
昨日、カフェで見たお母さんはまだ生まれて2,3年しか経っていない子に怒鳴り散らしていました。

もう、やめませんか?と言いたい。
こうなることはわかってるじゃないかと、そう言いたい。
でも、大人も子どもも、おじいちゃんもおばあちゃんもみんな人間。
それこそ、そんなに単純じゃない。
どうしたらいいのかなんて、小さな一人間である僕がわかるはずもない。
だけど、そのことに不思議と絶望感は抱いていない。
何とかなると、何とかできると、そう思っている。


あのセミナーで感じた違和感と、そこから生まれたえも言えぬ反発心は、
たぶん今でも僕を支えているのです。
あの時のあの言葉がきっかけで、僕は一つの宝物を得ることが出来ました。
それは「ピエロの筆」です。
僕は、あの時のあの言葉に対する違和感を行動に移したのです。
そう捉えれば、あのセミナーは僕にとって価値のあるもので、確かに啓発されたのかもしれません。

こんな絶望的な状況で僕がポジティブでいられるのは、
たぶん動物や植物たちの示す「理」とそばにいてくれる「仲間」の存在のおかげなのです。




言葉にするととても長いけれど、
こんなことを思ったのは自転車をこぐたった10分という時間。
湿気もなく、いつまででも自転車をこいでいたくなるような気持ちのいい夜でした。
by keita-net6086 | 2013-08-26 22:16