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2014年3月8日(2月合併号)

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3月に突入してしまいました。
三寒四温という言葉をそのまま表したような日々の連続に、
なかなか自分のペースを保てずにいます。
分かっているのにどうもうまくいかない。
そんなモヤモヤを毎日感じていて、どうやったらそれを振り払えるのか模索の毎日です。
たぶんこういう時は大胆な行動というか、決意のようなものが必要で、
楽な方向を模索するのではなく、
むしろどんどん自分に課題を出していっぱいいっぱいにさせるくらいの方が、
僕の身体にはあっているような感じもします。

よっしゃ、やってやろうじゃないか。

そうやって自分が奮い立つ状況を自分でつくる。
そうやって地道にやっていくしかないのですね。
まだまだ全然自分をコントロールできていません。
28年も生きているのに悔しい限りですね。

いつまでこんなことを繰り返さなければならないのか...

と、ふて腐れてもしようがないから、
とりあえず今日、明日やるべきことを整理するのです。







中学生の時、サッカーをやっていた僕は一度だけ大きな怪我をしました。
右足の太ももとふくらはぎを繋ぐ関節の外側の筋を伸ばしてしまい、
一ヶ月間走ることが出来なくなってしまったのです。
当時、中学2年生だった僕はレギュラーとして試合に出場していたけれど、
その怪我によって1ヶ月の間僕のポジションをチームメイトに明け渡し、見守りました。
ボールを蹴れない以上、僕はサッカーができないと思っていました。
しかし、すぐにその考えが間違っていることに気が付きました。

ボールがなくたって、サッカーはいくらだってできた。

そのことに気づいたとき、僕のやるべきことは明確になりました。
普段おろそかにしていたウェイトトレーニングに打ち込み、上半身を鍛えました。
あるいは、試合や練習を客観的に見ることで、分析力と問題解決力が身に付きました。
今ここで述べていることを当時から今ほどきれいに整理できていたわけではないけれど、
そういうことを明確に感じた瞬間をはっきりと覚えているのです。

それは、怪我から復帰した最初の紅白戦でのことでした。
控え組で出場した僕はレギュラー組の僕のポジションにいるチームメイトとマッチアップすることになったのです。
試合が始まって間もなく、自分の変化に自分で驚きました。
申し訳ないほどに、レギュラー組のチームメイトが小さく見えたのです。
それは、「僕が怪我をしていた1ヶ月間、何をやってたんだ?」
と思ってしまうほどの驚きでした。
彼は間違いなく毎日僕の目の前でサッカーをしていたし、
試合にもレギュラーとして出場していました。
その彼が、この1ヶ月の間に実力を落とすはずがないから、
たぶんこの感覚は自分がこの1ヶ月の間に成長できたことの証なのだと感じることが出来たのです。
そしてそれは、僕自身の驕った感情に頼ったのもではなく、
前半終了を以て僕がレギュラー組に復帰したことを考えれば、
この一カ月の間にできた僕と彼との差は、監督の目にもはっきりと映っていたのだと思います。

この経験が、まだ13〜14歳の記憶が今でも僕の内側に息づいているのは、
それほど価値観の揺さぶられた証拠なのでしょう。

大事なのは「幅」

だと、体で理解した瞬間だったのです。
ボールを蹴るだけではダメ。
筋トレをするだけではダメ。
走るだけでもダメ。
考えるだけでもダメ。

大切なことは、
全ての経験を「糧」にすること。
自分の生きた1分1秒を糧にすること。
サッカーが上手くなりたかったら、
料理が上手くなりたかったら、
絵が上手になりたかったら、
良い先生になりたかったら、

全ての経験を無駄にしない覚悟を持つこと。

それに尽きるのだと思います。
疲れると、未だに痛む右足の筋が僕を戒めるように、
常に前進と変化を求める僕の人生の若かりし時代の上で、凛々しく立っています。



事実になる



とは、言葉や行動を発するという自らの能動的行為を以て完了するのではないでしょうか。
発するという行為はあくまで能動的行為であって、自らの意志があることが基本原理になる。
一方で情報は否応なしに自分の内側に絶え間無く侵入してきているから、
それはとても受動的で有意志に関わらず自分の内側にどんどんおさまっていってしまう。
私たちは、その莫大な量の情報を整理する間も無く内側に蓄えていっている。

「声を出して読みましょう。」
「話してスッキリした。」

というのは、あまりにも多くの情報に困惑してモヤモヤしていた自分に、明確なヒントを提供するということだと思う。
前述したように、自分の意志ののった行為を通すことで、初めて事と自分が向き合い実を結ぶ。
事を世の中における事実として見ることで、
自分でも、こんなこと思っていたんだ。
自分ってこんな人間なんだと再認識することになる。
黙っていては事は実を成さず、本当に何も始まらない。
事と向き合うために自分の内側から発ることで、事を世の中に出してみる。
世の中に出した時に初めて事実となる。
そうやって少しずつ事実を積み重ねるために、

発する。

これ、大事だなーと寝てて起きかけの時に思ったので、急いで書き綴りました。笑
自分で、俺は何を考えながら寝てんだ?
とおもいました。



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丸くなる



丸くなるっていうのは、角をすり減らしていくことではなくて、寧ろ角を増やしていくことで多角的になることだと思う。
角を増やし続けて拡張的に円を描いていけるなら、それは良い人生を送れているということかもしれない。
たぶん僕はそういう生き方だと思う。
4角形が5角形に。
5角形が6角形に。
今、僕は何角形くらいだろうか。
もっともっと角を増やしていかないといけないだろうな。





2月合併号はこの辺りで。
3月はちゃんと前後半で記事を更新できたらな、と思います。
それではまた次号。
ではでは
by keita-net6086 | 2014-03-08 08:21

2013年11月16日(10月11月前半合併号)


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10月に入って、職場が変わって一気に押し寄せてきたあまりにも多い課題の数々。
それらが僕に襲いかかって来るだろうと精神的な準備はしていたけれど、いざそれらと向き合ってみると、自分の仮定的で希望的観測の強いイメージがあまりにも貧弱であることに驚かされました。
やはり、事実とぶつかり合って、それらにしっかり触れることで、自分の肌でその温度や固さ、湿度を感じること。その感覚的材料をまずは多く保有するところから始まるのだと改めて思ったのです。
季節はめっきり秋を深め、日々寒さを増す気温に反比例するように植物は暖色を纏っていくようです。
僕はこの季節が何だか以前よりもずっと好きになっていて、忙しいというフレーズが当てはまるような日々の中でも、慈愛あるしっとりとした今の季節が僕を慰めてくれます。
そのおかげで、沢山の課題を前にしても精神的には良好な状態で前に進んでいます。
10月から更新できなかったので、合併号としてここに綴ります。
月を跨いで10月と11月前半の合併号の更新です。



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イトヨリダイから



先日ASOで食事をした時のこと。メインディッシュでいただいたイトヨリダイを食べたあとこんなことを思った。

「僕たちが何にお金を払っているのかが重要なんだ。」

付け合わせは軽くグリルされた野菜。イトヨリダイは小麦粉を着けてカリッと香ばしくソテーされていて、ブールブランソースとバルサミコソースで仕上げられていた。
とても丁寧に作られていて、全然ネガティブな感情はなかったのだが、「これくらいならできないことはないな~」、とただそれだけ思った。
食事には一通り満足だったし、自分の負けず嫌い精神が強く働いたわけでもない。
ただ、お金で測ることができる価値の内訳は、実質的に僕たちが料理を口に入れる手前までに大きく左右されることを本当に強く再認識した。

つい数日前、スーパーで398円がタイムセールで半額になっているイトヨリダイを買って、自分で調理して食べた。
イトヨリダイはいつも美味しくそこにあるのだと肌に触れて理解ができた。

何が重要なのか、少しずつわかってきている感覚がある。
もう少し、もう少し。
答えはないけど、何かを掴めるまでもう少し。
そのあと一歩は、僕の内側にもお既にあるのかもしれない。



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昔の僕に謝りたい



何を割りきろうと、「今」だけがその答えであって、それがそのまま実力だと言わざるを得ない。
今はそれ以上でも以下でもなく、可能性をどれだけ保持していようが、今その目に映る僕が僕の実力なんだ。

事実

それはいつからか僕が最も重要だと考えるようになったことだ。
徐々に徐々に、様々な経験を経て、その考えに至るヒントを積み重ねた。
祖父の亡骸を撮ったとき、今まで撮っていた写真が事実を写しているようで、そうでないことがよくわかった。
僕の脳と、目と、感情と、フィルムとレンズと、被写体がひとつの一貫した線で結ばれておらず、結ばれなかった理由は、僕の自己顕示欲や虚栄心に満ちた幼い感情が、目の前にある事実を切り離していたこと。

割りきったり、切り離したり、意識的でも無意識でも、どちらでさえそれは、自分を防衛するために築いたつもりがいつのまにか自分の回りを囲い、自分自身を狭い世界へ閉じ込めることになっていた。

そのことに気づけた今、後悔はしていないけれど昔の自分に謝りたいと思う。
昔の僕の可能性を十分に生かしてあげられなくてごめんなさい。
今の僕から昔の僕へ、正しいかどうかはわからないけれど、そういう感情が自然と湧いて出てくる。
この感情はたぶん、今はもういない昔の僕へではなく、昔の僕のような僕よりも若い世代に送るべきなのだと思う。

勿論、一教育者として。

溢れんばかりの可能性を潰さない。
自分の中に流れる時間を、割りきったり、切り離したりせず、自分の人生の上にしっかり乗せられるようにサポートする。
たぶんそんなことが、僕の仕事になるのだ。
ただそれだけでいいのだと思う。

大事なのは、過去とも未来とも繋がった「今」。
今と言う「事実」だけが応えだ。

僕自身、その事から逃げてはいけないのだと強く思うこの頃なのである。



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山梨



に行ってきました。
よく行くとは言わないけれど、何故だか親しみあるというか、馴染みのある懐かしい臭いのする土地なのです。

久々に富士山を間近に見て、恐らく行ったときがピークであろう鮮やかな紅葉に心震えっぱなしでした。
呼吸を深く吐きたくなるような環境に、体の内からリセットさせられました。
沢山の写真を撮ったのでそれを載せることにします。

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今回はこの辺で。
沢山感じることがあり、それを元に沢山考えた1ヵ月間だったけど、それを整理して文章に落とすことがなかなかできませんでした。
更新できず情けない自分を再認識。
またここからしっかりと更新を続けていきたいと思います。
それではまた11月後半に。
ではでは。
by keita-net6086 | 2013-11-16 14:02

2013年9月22日(9月前半)

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夏の暑さが落ち着きをみせはじめ、
半袖一枚での外出に抵抗感を持つようになってきました。
季節との付き合い方が、年々知識と経験をもとに上手くなってきていると思うのですが、
良く生きる方法とは固定化されるものではないので、
毎年違う夏、毎年違う冬と、毎年違う自分を呼応させなければならないのです。
そう考えると、重要なことは「方法論」ではなくて、
年々、知識と経験を積み重ねる自分を自画自賛する事でもなく、
如何に成長してきた自分が柔軟であれるのかということです。
9月前半は僕にとって変化の時でした。
考える時でした。
それは「苦しい時間」ではなく、おそらくこれからの僕にとっての大きなチャンスの時間なのです。
自分なりに考え、それを理解ある大切な人たちに聞いてもらい、
僕と周囲の人達が一緒になって「正解のない答え」を導く。
そして、それに対する純度の高い行動を心がけるのです。
9月は10月以降の変化に対する準備の時期となりました。
そんなこの時期に感じたいくつかの事を綴ります。
9月前半の更新です。



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重要なことは自分の外にある




僕は小学校1年生の頃にサッカーを始めました。
僕が人生で初めて一生懸命打ち込んだ、向上心を持って努力をしたものがサッカーだったと思います。
世界に浸って、面白いものだけを拾い上げて享受していた時代にサッカーが終わりを告げたのです。
それからというもの、サッカーというものに打ち込むことで自分を支えてきました。
先頭に立ってチームを引っ張り信頼されることもあれば、
その責任感が裏目にでて、人とまともな付き合い方が出来なくなることも多々ありました。
サッカーからは本当に様々なことを学びました。
1人でもボールを蹴れること。
11人じゃないとサッカーが成り立たないこと。
その間に僕はいたのです。
当時のチームメイトには申し訳ないと思いつつ白状してしまうと、僕にとって試合の勝敗はどうでもいいことでした。
もちろん、チームが勝てば嬉しかったし、負けてしまえば悔しかった。
涙を流すくらい、感情を揺さぶられる勝敗も多々あった。
しかし、それを認めた上でも大事なことは「勝敗」に無かったのです。

残念ながら、今では誰かとボールを蹴る機会はもの凄く減ってしまっているし、
ボールを蹴りたいという意識的な欲求もほとんどありません。
ただし、無意識の中で体がボールを蹴りたがることがあるのです。
のどが渇いて、水分を欲するのと同じように、
身体がボールに触れることを望むのです。

身体を使って世界を知るという経験は、たぶんサッカーが教えてくれたのです。
真冬に空気のパンパンに入った固いボールを蹴ると、足首が折れてしまいそうになるほど痛みが走ること。
真夏の焼けるような校庭の上で走り回ることの、残酷なまでの辛さ。
雨の日の試合では、ボールや自分の足に接着剤が付いたように動かないこと。
風の日の試合では、信じられないくらいボールのコントロールが利かなくなること。
これは、サッカーでの出来事ではないのです。
サッカーを通して知ることのできた、世の中の、世界の出来事なのです。

今、この僕の身体が求めるボールの先にあるのは、
自分意識的欲求を充たすものではなく、
たぶん、世界の出来事や理を体が確認したがっているということだと思います。
僕たちの身体は、僕たちの意識の持ち物ではなくて、
世界と同化するべきものですから、必然的にその秩序を確かめたくなるのだと思います。

大事なことはいつでも僕たちの外側にあるのです。
このくらいの力で蹴ると、ボールはこのくらい移動するんだ。
足のここに当てると、しっかりボールは上に上がるんだ。

こんな確認作業を繰り返すことが、
きっと大切だったりするのです。
サッカーやスポーツとは無縁の生活をしていますが、
今でもあの時培った、身体感覚が僕を支えています。
それは、世界と繋がって良く生きるためのヒントでもあるのでしょう。




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わからない




1年半後に教師になるイメージを具体的に沸かすようになりました。
教師になって具体的に何をするのか。
その時、生徒や両親の前で何を話すのか。
多くの難題に困り果てる自分が容易に想像できるのです。
その時に、いかに説得力を持って教師という存在でいられるのか。
そういう難しい課題に希望を与えるのは、
「わからない」ことを認め、それでも尚生きることに充実感を得る自分自身の姿でした。

小さい頃、
暗闇をじっと見つめ、
その奥に何があるのか、
恐怖心と不安が転じて好奇心となり、
いつの間にかそれは、世界に対する敬意のようなものになっていたのです。
あの頃の、あの感覚が、きっと僕が教師になるにあたっての重要なヒントを持っていて、
「わからない」ことが尊いことだということを、僕に教えてくれるのです。

1人の人間が、一生の間に知りえることなど微々たるものではないでしょうか。
大人になるにつれて、経験や知識を積み重ね、
「わかった」気になって、「わからない」ことへの敬意を欠く。
そのことで、世の中に対する感性が鈍くなっていくのではないでしょうか。
闇はイメージの余白であり、僕たちの世の中に対する敬意や畏怖の的だと思うのです。

全てを知り得ることほどつまらないことは在りません。
「わからない」
そのことに思う存分甘えようと思います。
子どもたちとともに僕の歩く道は、きっとそこにあるのだと思います。




感謝を




友人と話をしていて、
教師になる僕は、人の前に立つ職業なのだと改めて考えさせられました。
その時、もっともっと魅力的な人間にならなければらないと思ったのですが、
それはどうも利己的な意識が強くあ利すぎるとも思いました。
たぶん僕がこれからすること、いやより大切にすべきことは、
憎悪や恐怖心を捨てることだと思います。
それが敵でないものまで敵にしてしまうのだと思うのです。
自分の感情にどんな波が立っても、
それが考える糧になったり、
それを乗り越えることが生きるヒントになるのであれば、
やはり感謝に変えるべきだと思うのです。
でも、頭でっかちになるのだけは避けたい。
気持ちいい人間が一番ですね。
まだまだそれには、遠い気がしていますが…





9月前半はこんなところで。
本当に涼しくなってきて、あっという間に秋から冬へ。
その変化を楽しんで過ごせたら良いと思います。
それではまた9月後半で。
1週間後ですが。笑
ではでは
by keita-net6086 | 2013-09-22 16:06

2013年9月3日(8月後半)

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暑い日が続きますが、夏が終わりを迎えるように日の入りの時間も随分と早くなりました。
夕方には涼しい風が日に焼けた肌をよく冷まします。
8月は、個人的に活発に動く時期だと考えていたのですが、
振り返ってみると、動きは静かによく頭を動かした時間だったように思います。
調理師試験とその勉強があったのが影響しているのでしょうが、
僕はもっともっと多くの事を知らなければならないし、
もっともっと多くの事を経験しなければならないのだと再確認した時間でもありました。
僕がフリーランスとして働く決断をしたのも元々はそのためのもので、
制限あるこの時間を精一杯大切にしなければ、
自分の決断に対して、自分と関わる多くの人に対して申し訳が立たないのです。
フリーランスとして過ごした3ヵ月。
この短い期間の間にも様々な学びがあって、
充実した結果を得ることもあれば、
納得出来ない気持ちをごまかす自分の弱さを感じることもありました。
だけど、良いも悪いもすべて先へと繋げなければ、
自分の価値のある行動に乗っかっていきませんから、
下を向くことなく、柔軟にすべてを受け入れる強さが必要なのです。
色々な意味で良い時間を過ごせたのではないでしょうか。
既に始めっている9月に、良い波を立たせたい。
その為には、やはり丁寧に毎日を過ごすことしかないでしょう。
仲間とキャンプに行ったので、月を跨ぎましたが8月後半の更新です。



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始まりが大切



良く寝て、良く食べて、良く考えて、良く働いて…
それだけが、良く生きることと言える気がしています。
僕は誠心誠意1枚の絵を描くと決めたとき、全身全霊で信じられるものを描きたいと思ったのです。
僕にとってのそれは、木だったり、水だったり、火だったりするわけですが、
それらは世界の「理」そのもので、嘘が無いということに絶対的な信頼感を置くことができたのです。

ある時実家でテレビを見ていたら、睡眠障害解消方法を紹介する番組が放送されていて、
その番組内では睡眠のメカニズムも丁寧にわかりやすく説明されていました。
睡眠のメカニズムは、要は睡眠ホルモンと言われるメラトニンの分泌に大きく左右されていて、
そのメラトニンを如何にうまく分泌させるのかが重要だということでした。
そして、そのメラトニンの分泌において重要なことは、まず一日の始め、それも朝の早い段階での朝日をしっかりと浴びるということだったのです。
朝日を浴びてメラトニンの分泌をスタートさせると、14~16時間後には蓄積されたメラトニンによって睡眠に入るようなのです。
つまり、一日の終わりは始まり方で大きく左右されるということです。

また、別の話をすると、
これは調理師試験の勉強中に妙に関心が沸いた部分の話なのですが、皆さんは「初乳」というものをご存知でしょうか?
初乳とは、要はお母さんの母乳のことなのですが、母乳の中でも最初の最初、生後数日間の間だけ分泌される母乳のことを言うのです。
この初乳は新生児にとって人生の一番最初に口にする記念すべき栄養であって、
それはその後に分泌される通常の母乳よりも圧倒的に栄養価が高く、様々な免疫的効果を新生児に与えるものだと言います。

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何故、わざわざこんな話を引っ張り出すのかというと、
「始まりが大切」という前に、
たぶん「人はそれぞれ」という当たり前の価値観の主張に、
いい加減うんざりしてきている自分がいるからなのです。
色々なものに触れ、より深く勉強しなければならないことに少しずつ気が付くと、
「人はそれぞれ」という主張ではなくて、生き物としての共通点とか、
感覚的な共通分母の部分をもっともっとこ大切にしていかなければならないのだと強く思うようになってきたのです。
たぶん、「人は~」って主張したがるのは、社会や大人に対する反発心だけが先行した結果でしかないのだと思う。
少なくとも、これまでの僕はそうでした。
今は、大切なことは「共有できる」ことだと思っています。
「共有できる」ということは、前衛的で、刺激的で、
思わず圧倒されてしまうような動的な力強さではなく、
生物的な慈愛があって、寛容で、感覚的である静的な力強さだと思うのです。

僕たちは生き物としてのリズムと上手に付き合って、良く生きることが「幸せ」ということなのではないでしょうか。
精神を鍛えるとか、自立するとか、
そうやって人間社会に対しての適応力を増すばかりでなく、
生きることに関心を持ち、生き物としての自分を理解することがもっともっと必要なのだと思います。

だから、「始まりが大切」なのです。
先に述べた2つの生き物としての話が、僕たちの良く生きる方法を示しているように思います。

始まりを大切に。
そして、それと繋がる今を大切に。

「 Make it count 」

映画「タイタニック」でジャックの言うこの台詞が、僕は大好きです。



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今はとにかく感謝を



僕が「考える」ことの糧は、感情を揺さぶられることです
これが一番の糧であることは間違いありません。
身体感覚と言語感覚の間にズレが生じれば生じる程、
それをすり合わせるように僕の脳は動きます。
おそらく、感情というものは理屈で捉えられるようなものではなくて、
突然自分の中に放り込まれるウイルスのような存在で、
それに対する免疫があったり、なかったり、
どちらにしろその感情が発端となって身体感覚と言語感覚の間にズレが生じる。
この修正作業が僕の「考える」というものなのだと思う。

今はどんな感情が投げ込まれ、どんなに僕の内側が荒波を立てようと、
「考える」きっかけとなるそのことに、感謝はするべきかと思っています。

僕は今、自分はそういう時期にいると考えているのです。



8月後半はこの辺りで。
28歳を迎え、だんだんと「わからないこと」の重要性を認識しはじめました。
これは良い事なのだと思います。
9月に何が起こるのか。
それを楽しみに、丁寧に過ごします。
それではまた、9月中旬に。
ではでは
by keita-net6086 | 2013-09-03 20:39

2013年5月30日(5月合併号)

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梅雨入りしましたね。
梅雨の間に植物たちがしっかりと水分を蓄えて、
しっとりと色の濃さを増し、
夏の厳しい日差しに耐えうる体をつくる準備の季節。
5月半ばに更新ができませんでした。
僕自身、5月は本当に準備の時期で、
6月に起こる変化に向けて、
頭と体と環境を整えることに必死でした。
毎日やるべきことがいくつもあって、
それを終えるとあっという間に1日が終わっています。
PCの前に座ってゆっくりとブログを書く余裕もなく、
精神的には折れそうになる気持ちを、
経験を積み重ねることで築いてきた自分なりの治療法で、
自分に精神的安定をもたらしていました。
27歳には何か大きな変化がある。
そうやって数年前から直感的に感じていたのは、
満更間違っていなかったようです。
それについては、28歳になる頃、
また詳しくここに記していこうと思います。
5月前半の更新が出来なかったので、
前後半合わせた合併号の更新です。



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neutral




鳥を自分でさばいて食べたとき思ったことを話そうと思う。
それは、世の中のシステムや社会的価値観に引っ張られて自分を動かしている限り、
きっと僕は幸せにはなれないだろうと思ったということ。

あまりにも話が飛躍しているから順を追って話す。
鳥の命を自分で落として食べることが、
僕の中であまりにもシンプルなこととして受け入れられた。
「なんだ、これができればいいんじゃないか。」
って純粋に思った。
これまでの27年間、とても複雑なことを考えていた自分に驚かされるほどだった。

これまで、ずっと自分は何かにならなくてはいけないと考えていた。
そのために、そのための手段や行うべきものを必死に考えてきた。
難しいことも沢山考えたし、
難しく考えすぎることだって多々あった。
自分の中で問題が山積みになって、
それらが絡み合って複雑化し、
なんとなく、その試練に耐えられるかどうかが自分の中での課題になっていた。
「一生懸命が大事。生きるのは大変なこと。」
僕の意識の根っこの部分で、それが活力となっていたし、
それが効果を発揮したとき、充実感を感じてもいた。

そんな僕の27年間が、鳥を食べたときにひっくり返された。
「あれ、生き死にってこんなにシンプルだったんだ。」
鳥を殺して、僕はそれを食べて生きる。
ただそれだけだった。
感情的な問題は何もなかった。
自分を高ぶらせることもなければ、
降ってきた感情に苛まれることもなかった。

これでいいんじゃん。

そう思ったら、
僕は自分でちゃんと生きたいという意識がとても強くなった。
自分の名前で仕事がしたい。
そうじゃなきゃ、自分をより輝かせてくれるようなものに自然と近寄っていったり、
心から尊敬できるものと自然と寄り添ったり、
そういった、自分が本当に素敵だと思うような出来事が絶対起こらないなと思った。
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何にも引っ張られないニュートラルさと、
何にでも寄り添う柔軟さをしっかり持つには、
僕はしっかり渡辺圭太である必要がある。

そういう風に生きれたら、
たぶん幸せになれるって確信に近いものを感じてしまった。

自分の真ん中でいられたらとてもいい。
とても素敵な人生を送れる。
そのためのベースは自分でつくる。

その時決心した。
自分の名前で働くことを。
決心して思った。
実は小さいころからずっとやりたかったことって、
こういうことなんじゃないかって。

「 NEUTRAL 渡辺圭太 個人事務所 」

やることは至って簡単。
僕の今、目の前にあること。



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感覚を分析する




自分の感覚が捉えた、どうしようもなく惹きつけられてしまうものがいくつかある。
その中の一つの話、

鉄塔の話。

電波塔とでもいうのだろうか。
電波は出してないだろうからそうは言わないか。
田舎でよくこれを見かけるのは、比較的広い範囲の電線を繋ぐ役割を担っているからだろう。
僕の育った田園地帯にもこれが恐ろしいほど乱立している。
だから僕の原風景ともいえるものだけれど、
そういう理由でいまだに惹かれるというのは、
なんだか自分の中で説得力が足りない気がする。
あの鉄塔の何が僕をここまで魅了するのか、
全然分析しきれていない。
わからないことが嫌いな僕は、
魅了されているが故に問題を課せられているような気分だ。

こういう自分の感覚を分析するとき、
自然と自分の中で行うのは、
対象の客観的要素を抽出して自分の経験的感覚と照らし合わせること。
その作業を行うと、自分と対象の共通理解が進む。

鉄塔について言えば、
広大な田んぼの上に長い電線を通したり、
山と山とをこれまた長い電線で繋いだりしている。
「難しく考える前にデカイの立てて、繋げちゃえばいいでしょ。」
的な感覚を覚える。
こういう、とりあえずやっちゃおう!
やらなきゃわからん!
そういう大胆さはものすごく共感できる。
山の斜面に立って、
広大な自然をものともしないその凛とした立ち姿は、
なんだか格好良くもある。

この、基本的に肯定しようとする姿勢こそが「好き」というものな気がする。
「好き」って領域になるとこれがいきなり難しくなる。笑
だからそこには言及しない。

お分りの通り明確な答えは出ない。
けれど、この分析する過程が大切で、
この作業を行うからこそ自分のアンテナが広い範囲に張られることになる。
日本中を覆う電線のように。
感覚を感覚のままに蔑ろにしておかない。
自分が世界から拾い上げた、世界と共鳴した感覚を丁寧に扱う。

この過程は、僕の可能性をどんどん広げてくれる。
良い表現に繋げることが出来れば、
これ以上の喜びはない。
良い表現は、いい循環を呼ぶから。
僕は良い表現を心がける。
感覚の分析の目的はそこにある。





5月合併号はこんなところで。
6月からは生活の変化と共に、
新たなステージの中で新鮮に感じたことを記せていけたらと思います。
それではまた6月中旬に。
ではでは。
by keita-net6086 | 2013-05-30 17:14

2013年5月3日(4月後半)

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緑が増々色濃く、艶を纏ってきて、
植物たちも梅雨を迎える準備を整え、
その先にしっかりと夏を見据えています。
僕自身もこの5月から、少し「生活」に変化がありそうです。
仕事をする体制に増々自由度が増し、
勉強することと、表現すること、堪能することのバランスを、
しっかり自分で取っていかなければなりません。
自分の生活に、ちゃんと自分で責任を取る。
僕にとってこれ以上の充実感はありません。
オンとオフの切り替えをしっかりと意識して、
これから迎える夏を見据えて、
僕も人間的な艶を纏っていけるよう、
楽しく、真剣に、柔軟に生きていこうと思います。
月を跨ぎましたが、4月後半の更新です。



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時間が無くても



時間が無くても、無理してでも、
表現し続けなければ、自分のやっていることが正しいかどうかも判断がつかない。
そう、正しいかどうか、
それは自分で決められることではないから、
ちゃんと丁寧に表現して、
それを受け取った人たちの応えをみて、
その表現がいい循環を生んだのか、その逆だったのか、
それともそんな問題以前の取るに足らないものだったのか。
そこのところを、
しっかり見極めなくてはいけない。
自分が気持ち良ければいいとか、
何とかなるとか、
そうやって奔放に生きていける人はいいけれど、
僕はきっとそれではうまくやっていけなくて。
丁寧にやることが、
僕の性質に合っていて、
それが僕を生かして、
周りもきっとそれを認めてくれる。
最近その成果がはっきりとわかってきて、
時間をかけて積み重ねてきた甲斐があったなと、
少し自分を褒めてあげたくなる時がある。
でも、まだまだ僕なんて取るに足らない存在だから、
もっともっと勉強して、
客観性を自分に積み重ねて、
柔らかくならなくちゃならない。
ただし、ここぞという時に一点集中型のフルパワーを出す覚悟は常に必要で、
それは、誰にもわからないように、
奥の奥にしまっておいて、
いざという時にだけ使う。
常に出す気満々だと、
昔みたいに、周りをぐちゃぐちゃにするだけだし。
そういう無神経なやり方は、自分も何も生かさない。
こうやってここに、細々と書いて、
自分が何を思ってるのか、
自分の書いた文字を自分の客観性が追いかける。
何だかツラツラと書き綴って、グルグルしてきたのでやめます。笑




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僕のやり方




人の意見や価値観が様々であることは、僕自身しっかりと認識して受け入れなければ、
僕自身がとても貧弱な人間にしかならないだろう。
そのことをもう十二分にわかっているから、
どんな人の言葉や行動も、理解する姿勢は常に持っていたい。
しかし、その言葉や僕に対する意見を、
自分の表現に取り入れるかどうかは、
よく判断しなければならない。
2012年の6月に高校の教育実習に行った時、
先生方が自由を与えてくれたので、僕は僕のやり方で授業を丁寧に進めることで、
上手く生徒との関係を築くことができた。
しかし、後の授業で指導教官の先生方からいただいたアドバイスを取り入れ、
やり方というか、姿勢を変えたとたんに、
生徒の意識は授業から離れ、失敗した。
先生方のアドバイスが悪かったというのではない。
そのやり方を、僕がやるべきではなかったということだ。

僕は教師を目指し始めてもう10年になる。
社会的な「免許」は取っていても、まだ僕の中での「教員免許」は取れていない。
納得できていないのだ。
そうやって、自分自身で経験を積み重ねて、
それらを分析し、
よく考えるという行為を積み重ねていると自負しているから、
もっともっと自分を信じてみよう。
自分の直感や判断を信じてみよう。
ただし、
毛穴はいつも開いて吸収率は常に高く、
僕は僕にしかできないことを、
良い循環を生むことをやるべきだ。




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こだわりの欠如




何だか同じようなことを何度も書いてしまいます。
たぶん、僕にとって今は転換期で、
自分に対する戒めと、
これから歩いていく道に対する確認作業を、
自分でも無意識のうちに何度も行っている証拠でしょう。
そういう慎重な姿勢というか、意識のうちにありながら、
整理すべきことを整理できない自分もいるのです。
何だか重要なことって、
「大きな円の中心部だけ」くらいに最近は思えてきて、
「こうじゃなきゃいけない、こうしなきゃいけない」
という自分の価値観の主張に終始するものが、
著しく陳腐な行為に見えるのです。

いい意味で何でもいい。
何でも楽しい。
そう、
何でも楽しさを隠し持っていて、
それを発見して引き出す楽しさを覚えてしまったから、
そういう意味で、
僕はもうこだわりが欠如してしまった。

ただし、そうは言っても本当に何でもいいというわけではなく、
僕が本当に受け入れることが出来ないのは、
著しく可能性を、
伸びシロを縮めてしまうような言葉や行い。

それは立ち位置の問題が主で、
その問題を解決するには、
やはり、僕自身どこにも属さない広い客観性を持ち合わせていないとうまく判断できないから、
だから、僕はどんどんニュートラルになるために、
勉強と経験を積み重ねていくつもりです。




本当に同じことを何度も言っていますね。
たぶんこれは、僕自身に言い聞かせているのだと思います。笑
もう君の言いたいことは十分わかった!
やるだけです。
4月後半はこの辺りで。
また5月中旬に。
ではでは
by keita-net6086 | 2013-05-03 15:07

2013年4月1日(3月後半)

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今年は桜が例年よりずっと早く咲きましたね。
しかし、開花してから少し冷え込んだせいか、随分長く桜を楽しむことが出来ています。
いよいよ本格的な春ですね。
暖かくなって、僕は精神的にも体力的にも安定していて、
2013年に起こるであろう様々なワクワクを受け入れる準備は万端です。
世の中が活動的になるとともに、
僕もそれに負けじと精力的に動いていこうと思います。
月を跨ぎましたが、3月後半の更新です。

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またもう一度、自分を世界に溶かす



毎年、この時期この写真が溢れることは致し方ない事ですね。
あまりにも魅力的過ぎて、
僕の天邪鬼な部分が反発心を抱くこともしばしばなのですが、
やっぱり自然とシャッターを切らされてしまうのが桜ですね。
満開の桜も良いですけれど、
僕は桜が散っているその時、ピンクが濃くなって葉桜の状態の時がどうしようもなく好きです。
4月の中旬には山の方に行くので、
標高の高いところではまだまだ満開の桜が見られることでしょう。
この桜が終わったら、新緑の季節。
僕もその時期に再び筆を持って、
作品作りを再開するつもりです。
徐々に描きたい衝動がフツフツと沸き始めています。
100号の絵を完成させて2か月弱。
一度も筆を握っていません。
またあの自分を酷使してでも、絵を描くという行為に完全に服従する、
幸せな時間に浸りたい。
自分なんていなくなってもいい。
そう思えるほど、僕にとって絵を描くことは自分を世界に溶かすことなのです。
そのステップを踏んだ数が、
もっともっと自分に世界を教えてくれる。

もっともっと。

いつまでもそんな風に生きていきたいものです。



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大きな問題1つよりも、小さな問題10個の方が大きな問題



1つの小さな問題をないがしろにすること、それほど恐ろしいことはないと思う。
大きな問題というのは、比較的わかりやすい。
大きさゆえに、その壁は高く乗り越えるのも困難だけれど、
解決の方法はわかりやすく、体力勝負に終始したりする。
難しいのは小さな問題だ。
1つ1つの問題は小さいから直ぐに解決できるけれど、
直ぐに解決できるからと言って、ないがしろにしてしまったとき、
その積み重ねがスタートし、
気が付いたら解決不能なほどに複雑多様化し、
どこから手を付けていいかわからない程大きな問題となる。

小さな問題に一つ一つ丁寧に取り組むこと。
後回しにしないこと。
その重要性をしっかりと認識するかどうかが、
その人間の方向性を定め、
その人間のステージを決め、
その人間に見合った充実感や喜びをもたらす。

もうこの歳になると、大胆ささえコントロールしなければならないんじゃないかって思っている。
小さくまとまるとかそういうことではなくて、
全てにおいて、
手前にあるものの奥を見るような丁寧さが必要なんじゃないかって、
そう思う。

小さな問題が大きな問題。
このことを自分に戒めて、
丁寧な表現を心がける。



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やっぱり僕が欲しいのは説得力



何度この言葉を言ったかしれないけれど、
やっぱり僕が欲しいのは、
地位でも名誉でもなく、
人としての説得力なのだと思う。
お金に感情を左右されたり、
それを優先事項にしたり、
そのことがどれだけむなしい事か、
先の世代がもう示しているじゃないか。
雑な言い方ではあるかもしれないけれど、
楽しけりゃいいんじゃないかって。
本当にそう思う。
僕の言う説得力は、楽しけりゃいいってもんでもないけれど、
もっともっと大きな視点に立った時に、
世の中を楽しいと思えることが一番いいって本当にそう思う。
「思う」のは自由なのに、
本当にみんな自由なのに、
何で多くの人が、「思う」ことすらできないんだろう。
何とか僕は「楽しく思う」方向に世の中の舵を切りたい。
その舵を動かすだけの説得力を今身につけていこう。





今回はこの辺で。
絵の制作とともに、頭でっかちになりがちだったので、
4月からは新たなスタートということで、
もっともっと柔軟に面白い視点を書けたらいいと思います。
それではまた4月中旬に。
ではでは
by keita-net6086 | 2013-04-01 16:11

2013年1月14日(1月前半)

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一週間前に年をまたいで2012年最後の更新をしたばかりですが、
2013年のスタートを切る更新です。
改めて、今年もよろしくお願いします。

寒さが落ち着きをみせていますね。
寒いことは寒いのですが、「こんなもんか」と少しなめてかかっている自分がいるので、
そのうちに痛い目にあいそうです。
今は本当に大事な時期なので体調の管理だけはしっかりとしなければなりません。
今体調を崩したら、ちょっとやばいです。
大事な卒業制作の追い込みの時期ですからね。
精神的には落ち着いているので、
このままやるべきことを着々と進めていくだけですね。
頑張りましょう。
そんなこんなで、1月前半の更新です。



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Stranger than paradise


という映画を見ました。
その名の通り、とても不思議な雰囲気をまとったアメリカ映画で、
アメリカってよりヨーロッパ臭が強い感じがしました。
まあ主人公はアメリカに住むハンガリー人ですから、
そのよくわからん設定の多くが、妙にナチュラルで、
何故か心地いいものでした。
ニューヨークという大都市ですら閑散とした描写で、
終始退廃的、虚無的な映像は、
おそらく耐えられない人が多いと思います。
寝ますね。
僕は結構この手の映画が好きで、
ボーっとみていると、ちょこちょこ僕のアンテナに引っかかってくるものがあるんです。
ただただ堪能することを許さない映画というか、
表現したい1つのことをものすごーく遠回りして出している映画というか、
要は、V・ヴェンダース的です。笑
あまりにも日常すぎる中に潜む、小さな大問題をさらっと仕上げるというか。
ちなみにヴェンダースの写真展のスタッフをしたことがありますが、
ヴェンダースは夫婦共にデカいです。笑
それはともかく、
この『Stranger than paradise』は最近僕自身が考えていたことと良くリンクしたんです。
それは、

「表現することと、堪能することのバランスをとること。」

ということです。
とにかく、この映画に出てくるメインの3人は堪能ばかりしています。
そして、その堪能の仕方があまりにも不器用で、3人が一様に言葉・行動の表現がとても軽率で、雑です。

堪能することばかりに快楽を求め、
表現することを怠るがばかりに自分の吸収率が上がらず、
堪能することすら十分にできない。
そのために、表現の質が上がらず自分自身の置かれる環境が改善されない。
だからこそ、当てもなく変化も少ない堪能に快楽を求める。
または、運任せ。

僕が最近考えていたこの悪循環を、この映画は見事に表現していました。
監督・脚本がそれを意図しているかは定かではありませんが、
僕にはそう感じられたのです。
僕は質の高い表現を求めることのない堪能は、
不安の解消を目的としたものに過ぎず、
そういった堪能の先に本物の充実感はないと考えています。
本物の充実感は、堪能することと表現することのバランスが取れていて、
心がニュートラルな状態になったところを出発点にした、
その先にどこまでも広がる豊饒の大地のようなものだと思っています。
そこには、どんな種(表現)を蒔こうとも、立派な花や果実を実らせるものだと思うのです。

僕自身も、表現することを本気で意識し始めた頃から、
圧倒的に吸収率があがり、
堪能の質が著しく向上していることに気が付きます。
おそらく、そのスタートはカメラを始めた頃でしょう。
街を歩くのに、カメラを持っているのといないのとでは、
その吸収率は恐ろしい程に変わってくるのです。
これは、私自身が身をもって実感しているものです。

表現することと、堪能することのバランスをとること。
それが成されれば、おそらく自然と自分を取り囲む環境が向上していくことでしょう。
僕はそう考えています。
だからこそ、そのことを改めて自分自身に戒めて、
今年も丁寧に生きていこうと思います。

『stranger than paradise』を観て、ただただそんなことを思いました。



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表現することと堪能すること、そのバランスをとることの重要性は先に述べた通りですが、
僕にとって、その最たるものの1つに「食」があると考えています。

僕は心と体は相互作用的な関係にありながら、
バランスを保つのに非常に苦労するものだと考えています。
心と体のバランスが崩れれば、両方の表現力は著しく低下し、
人としての魅力も、説得力も失いかねません。
だからこそ人は、五感というものを最大限に利用して、外部のものを自分の内に取り入れ、
心と体のバランスを取るのだと思います。
例えば、聴覚を使って音楽を聴く。
それに視覚を加えて、映画を観る。
このように色々なものを体内に取り入れてバランスをとろうとします。
そして、その中でも全ての感覚を使って体内に取り入れ、すべてのエネルギーとなる形あるもの、
それが「食」だと思うのです。
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食が生きていく上での最低条件あることは言うまでもなく、
心と体のバランスを取るのに最も強い影響力を持つ物だと思います。
だから僕はできるだけ、わかりたいのです。
良い「食」とは何かを理解していきたいのです。
それがオーガニックとかロハスとか、
そういうものを強調すということとは違う領域です。

しかし今世の中は、あまりに「お手軽」な食に溢れているから、
その強い影響力をもつ食を、あまりにも「お手軽」に済ませられてしまう。
その為に、心と体のバランスを取るせっかくのチャンスを逃してしまいがちになるのだと思います。
少なくとも僕は、
食を強く意識することで、かなり助けられている部分があります。
作品制作など、過剰に集中力を酷使することなどがあると、
どうしても心と体のバランスが崩れてきます。
そんな時に取るしっかりとした食事に、本当に助けられるのです。
それが生活の中での良い過程(丁寧な意識)を踏んだものなら尚更なのです。

結局のところ何が言いたいのかというと、
僕は、僕という存在が多くの人の中で、いい環境でありたいと思うのです。
その為に、心と体のバランスを取らなければならない。
その最たる良法が、「食」であるということです。
巡りに巡って、そういうことです。笑
長いですね、失礼しました。

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野菜のテリーヌ モザイク風 オランデーズソース
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ローストビーフのオニオンサラダ オーロラソース
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鴨のポワレ フォアグラムース添え ポルチーニ茸の赤ワインソース

ちなみにこの料理は、友人のお祝いのために作ったものの一部。
誰にとっても重要な問題である「食」を介することは、
とてもいい循環を生みます。
実体験からの考察ですが、これは僕の教科書である『美味しんぼ』から学んだ精神でもあります。笑
なんちゃって。





まだまだ書こうと思うことがあったのですが、
ちょっと2013年のスタートということで、ちょっと張り切ってしまいました。
読む方はしんどいですよね。
既に書きすぎた感があるのでこの辺りで止めておきます。
これから、いよいよ卒業制作の追い込みです。
1月後半の更新は、そんなことが中心になるのかなと思います。
それでは改めて、今年もよろしくお願いします。
また、1月後半に。
ではでは
by keita-net6086 | 2013-01-14 20:40

2012年10月31日(10月後半)

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気温が本格的に秋ですね。
半袖はもう滅多に着ません。
長袖でも肌寒く、上に羽織るものが絶対に必要です。
体調を崩している友人が多いので、
僕も栄養のあるものを沢山食べて、
これからの大事な時期、乗り越えていきたいと思います。
10月後半は大きな変化のある時でした。
内的な変化です。
内的な変化に伴って、僕はどんどん環境を変えていきたい意識に駆られています。
まだ、その思いを総括できていません。
今は、今思うことを綴るのみです。
2012年、10月後半の更新です。



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友達が突然いなくなってしまった。
初めての経験だ。
まだ整理がついていない。
整理なんてつけてはいけないのかもしれない。
僕は一生この問題と立ち向かわなくてはならないのかもしれない。
先送りしたいことが沢山ある。
そう思うたびに僕の前に立ちはだかる

「今」

今はそれと戦うのみだ。



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自分のしたいことがわかる



ピエロの筆のメンバーの羅久井ハナコラムにこんな一節があった。
「机と椅子、苦労してやっと整理された、大きな棚、この部屋。自分が自分に、何をしろと言っているのか、わかってしまった。」
この言葉、もの凄く共感できた。
僕はどうもやるべきことが進まないとき、モヤモヤしたとき、
とりあえず自分の道具や部屋を整理する。
そうやって、自分が選択してきたモノたちにふれ、
自分の思うように整理していると、
どんどん自分のしたいことがわかってくる。
部屋の整理が終わった時、
頭の中も整理されていて、
今やるべきこと、
これからやりたいことが、
ちゃんとわかる。
ぼくを取り囲むすべてのものが、
僕自身と呼応しながら、
細々と生きている。



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卒業制作本格始動



あるとき、僕の中にフッと落ちてきた絵があった。
どうしても描きたい、形にしたいと思った。
それは、降ってきたのか、
それとも自分の内側から釣り上げたのか。
4年間の集大成として、
僕はそれを形作ることにする。
時間や金は惜しまない。
今の僕にできることを全部やってみる。



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マルチ



先日、実家でTVを見ていた時、明石家さんまが若いタレントを相手にこんなことを言っていた。
「タレントとして、あれもこれも何でもやりたいなんて無理やで。」
この言葉の裏にいはきっと、
「下手に何にでも手を出そうとすると失敗するから、とりあえず自分の目の前にある歌や踊りを一生懸命やって、そのプロになりなさい。その部分での自信がないと『マルチ』に活躍することは難しい。」
というあいじょうあるメッセージが込められていると思った。
TV界でバラエティーのプロとされる明石家さんまらしい言葉だと思い、妙に納得してしまった。
確かに、自分の才能を使って長く芸能界で生きていこうとすれば、ある部分でプロとしての自信、そこからくる余裕が無ければ難しいのかもしれない。
もし、あくまで「何でもやりたい」と主張するのであれば、
あらゆる基本的知識と技能、
それ以前に学ぶことに対する柔軟な姿勢が必要不可欠だろう。
それを持ち合わせることこそが、
「マルチ」に活躍できる人の姿かもしれない。

僕の話をすれば、
教師を目指し始めると同時に、
「ある程度何でもできる人間になりたい」
と思うようになった。
それは、漠然と生まれた意識で、何となく教師にはそういった人間が理想的な姿に思えた。
また、教師は全ての経験をありのまま還元できる数少ない職業であることも大きな理由だった。
だから、
「何でも経験すること」「とにかくやってみること」
が僕の中で大きな価値観となった。
まだ、教師になっていない僕だけど、
教育実習等で子どもと触れ合い、話す機会はこれまで多々あった。
その時に、経験的に物事を話せたことは、ことbの説得力に繋がり、十分に効果を発揮した。
「何でもやってみること」からもたらされた物の重要性は、すでに味わうことができている。
しかし、やっぱりそれだけではダメだった。
何か、形に残ったもの、表現できるものに自信がなければ、
感動を与えるには至らない。
内側にある自信がもたらす、外側の輝きがまだ僕には足りない。
その為に、何かのプロになる必要がある。
それが決して、「教育学」のような体系化することを目的化するものでないことは、自分で分かっている。
だからこそ、僕は今夢中になって表現活動に取り組むのかもしれない。






色々思うことがあって、
これから生活に大きな変化が起きそうな今、
何も整理がつかず、
地に足がついていません。
そんな中、本格的に卒業制作に取り組み始めなければ。
やるべきことにお尻を叩かれている状態です。
ワーグナーでも聴いて、
気持ちを奮い立たせて、
なんとか前に進みます。
それではまた、
11月中旬に。
ではでは
by keita-net6086 | 2012-10-31 14:55

2012年10月16日(10月前半)

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荒々しい天候と気温も落ち着きを見せ始め、
いよいよ本格的に秋といった感じ。
半袖よりも長袖の方が心地よく、
外出時には羽織るものを持っていかないと不安なくらい。
あと一か月もすれば、みんなコートを引っ張り出して、
いよいよ本格的な冬の準備へ向かうのだろう。
そんな中、僕はいつも通り課題を進める毎日で、
毎日何だかんだ、やることやって過ごしています。
早く学校の目下の課題を一段落させて、準備中のピエロの筆の企画に本腰を入れなければなりません。
精神的には安定しているので、
計画的にしっかりこなしていこうと思います。
そんな感じで、10月前半の更新です。



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秩父



時間を見つけて、秩父に行ってきました。
よく耳にする割に一度も行ったことがなかったので、
ずっと行ってみたい気持ちを温めていました。
距離的には、下道だけでも車で2時間半くらい。
そんなに遠くはありません。
僕の感覚ですが。笑
秩父についての知識なんかを深められたかどうかはわからないのですが、
空気は感じることができたし、
今後「秩父」という名を耳にした時、イメージが湧きますからね。
いい経験でした。
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秩父は予想以上にしっかりした町で、
大自然という感覚はあまり味わえませんでした。
よく行く奥多摩の方が自然が深い印象で、
水もきれいです。
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でも周囲を山に囲われているせいか、
孤立した町独特の雰囲気があって、
もっともっと僕自身関心を持てば、色々返ってきそうな町だとも思いました。
まあ移動が多くて滞在時間が4時間くらいだったんで、
ほんの一部しか見てないですからね。
当然か。笑

また行く機会があれば、
色々探ってみたいと思います。



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自信を持つ場所



先日友人と話していて、
ふと自分の口からでた言葉に、自分自身で妙に納得してしまった。
人と話すとこういうことがよくあって、
自画自賛してしまうような言い回しや発想が出てきたりするから、
会話の重要性に気づかされますよね。
まあ失敗することも多々あるので、逆もしかりですが。
どちらにしろ、人と会話することはとても勉強になりますね。

話を戻して、
友人との会話の中に、自信についての話題があった。
「自信を持つことが大切だ。」
という考え方をベースに、自信についての話は展開していった。
その展開の中で、自信を置く位置の話に及んだ。
僕が考える正しい自信を置く位置は、
今ではなく未来にあって、
今自分の持つ知識や技術、能力に自信を持ってはいけないと考えている。
今の自分は認める、理解する対象であって、
自信を持つ対象ではない。
今の自分に自信を持てば、
それを誇示したり、他者に押し付ける行動に移してしまうだろう。
だからこそ、自信を置く位置は先の未来に置くべきで、
「俺ならできる。」「このまま続ければ絶対成功する。」
というのが正しい自信の持ち方だと思う。
だって自信は「自分を信じる。」と書くのだから。
もともと状態ではなく、進行形の意味を持った言葉なんですよね。

僕自信、そう思って友人に話した瞬間、
「なるほどな~」って思ってました。笑
自分に酔って気持ち悪いですね。

いつでも納得できるのは、シンプルで当たり前のことばかり。
今回も、当たり前のことに気づいて、
妙に納得。
僕もまだまだということですね。
少しずつ、底上げしていきます。




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線の質



僕はまあ一応美大生ですから、線というものを沢山引くわけです。
それは絵を描く線にとどまらず、
字を書く線、縁取る線など、
とにかく沢山の線を引いてきており、
これからも沢山の線を引いていくことでしょう。

宮崎駿が面白いことを言っていて、
「人間が一生に引ける線の距離は限られているんです。
 地球を七周り半とか。
 僕はもうとっくに超えていますがね。 」

なんて言っていた。
冗談めいた言葉の中にも、どこか真実味があって、
そういう発想を自分の向こう側に置くことで、
前進し続ける自分を励ましているんだと感じた。

僕はいったいどれくらいの線を引いてきただろうか。
小さい頃から、
線の質は僕にとっての重要な問題で、
引けば引くほど、その質が向上してきていることはわかっている。
しかしそれを、単に技術が伸びたといえば僕の気持ちは消化不良を起こしかねない。
線の質の向上が表すのは、
ペンや鉛筆の持ち方、
手首の使い方、
腕の使い方、
目の使い方、
脳の使い方、
これらすべての質の向上だった。
柔軟性、丁寧さ、
経験をもとに育まれるこれらの質が、
線の質にも反映される。
人間的な成長を、一本の線が表すのかもしれない。
だから「絵」は絶対に嘘をつけないのです。

地球を七周り半した時、
僕は人としてどのくらいの位置にいるのだろう。
線の質を見ることで、
今の自分の立ち位置を確認してみる。
モヤモヤしたら、
そんなことで自分を客観視するのも悪くない。




冒頭にも書いたけど、いよいよ本格的な秋です。
気温も安定してきたから、
動こうと思えば夏よりもずっと動きやすいですね。
気を抜くことなく、
計画的に前に進んでいきたいと思います。
それではまた、10月下旬に。
ではでは
by keita-net6086 | 2012-10-16 13:22