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2013年9月22日(9月前半)

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夏の暑さが落ち着きをみせはじめ、
半袖一枚での外出に抵抗感を持つようになってきました。
季節との付き合い方が、年々知識と経験をもとに上手くなってきていると思うのですが、
良く生きる方法とは固定化されるものではないので、
毎年違う夏、毎年違う冬と、毎年違う自分を呼応させなければならないのです。
そう考えると、重要なことは「方法論」ではなくて、
年々、知識と経験を積み重ねる自分を自画自賛する事でもなく、
如何に成長してきた自分が柔軟であれるのかということです。
9月前半は僕にとって変化の時でした。
考える時でした。
それは「苦しい時間」ではなく、おそらくこれからの僕にとっての大きなチャンスの時間なのです。
自分なりに考え、それを理解ある大切な人たちに聞いてもらい、
僕と周囲の人達が一緒になって「正解のない答え」を導く。
そして、それに対する純度の高い行動を心がけるのです。
9月は10月以降の変化に対する準備の時期となりました。
そんなこの時期に感じたいくつかの事を綴ります。
9月前半の更新です。



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重要なことは自分の外にある




僕は小学校1年生の頃にサッカーを始めました。
僕が人生で初めて一生懸命打ち込んだ、向上心を持って努力をしたものがサッカーだったと思います。
世界に浸って、面白いものだけを拾い上げて享受していた時代にサッカーが終わりを告げたのです。
それからというもの、サッカーというものに打ち込むことで自分を支えてきました。
先頭に立ってチームを引っ張り信頼されることもあれば、
その責任感が裏目にでて、人とまともな付き合い方が出来なくなることも多々ありました。
サッカーからは本当に様々なことを学びました。
1人でもボールを蹴れること。
11人じゃないとサッカーが成り立たないこと。
その間に僕はいたのです。
当時のチームメイトには申し訳ないと思いつつ白状してしまうと、僕にとって試合の勝敗はどうでもいいことでした。
もちろん、チームが勝てば嬉しかったし、負けてしまえば悔しかった。
涙を流すくらい、感情を揺さぶられる勝敗も多々あった。
しかし、それを認めた上でも大事なことは「勝敗」に無かったのです。

残念ながら、今では誰かとボールを蹴る機会はもの凄く減ってしまっているし、
ボールを蹴りたいという意識的な欲求もほとんどありません。
ただし、無意識の中で体がボールを蹴りたがることがあるのです。
のどが渇いて、水分を欲するのと同じように、
身体がボールに触れることを望むのです。

身体を使って世界を知るという経験は、たぶんサッカーが教えてくれたのです。
真冬に空気のパンパンに入った固いボールを蹴ると、足首が折れてしまいそうになるほど痛みが走ること。
真夏の焼けるような校庭の上で走り回ることの、残酷なまでの辛さ。
雨の日の試合では、ボールや自分の足に接着剤が付いたように動かないこと。
風の日の試合では、信じられないくらいボールのコントロールが利かなくなること。
これは、サッカーでの出来事ではないのです。
サッカーを通して知ることのできた、世の中の、世界の出来事なのです。

今、この僕の身体が求めるボールの先にあるのは、
自分意識的欲求を充たすものではなく、
たぶん、世界の出来事や理を体が確認したがっているということだと思います。
僕たちの身体は、僕たちの意識の持ち物ではなくて、
世界と同化するべきものですから、必然的にその秩序を確かめたくなるのだと思います。

大事なことはいつでも僕たちの外側にあるのです。
このくらいの力で蹴ると、ボールはこのくらい移動するんだ。
足のここに当てると、しっかりボールは上に上がるんだ。

こんな確認作業を繰り返すことが、
きっと大切だったりするのです。
サッカーやスポーツとは無縁の生活をしていますが、
今でもあの時培った、身体感覚が僕を支えています。
それは、世界と繋がって良く生きるためのヒントでもあるのでしょう。




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わからない




1年半後に教師になるイメージを具体的に沸かすようになりました。
教師になって具体的に何をするのか。
その時、生徒や両親の前で何を話すのか。
多くの難題に困り果てる自分が容易に想像できるのです。
その時に、いかに説得力を持って教師という存在でいられるのか。
そういう難しい課題に希望を与えるのは、
「わからない」ことを認め、それでも尚生きることに充実感を得る自分自身の姿でした。

小さい頃、
暗闇をじっと見つめ、
その奥に何があるのか、
恐怖心と不安が転じて好奇心となり、
いつの間にかそれは、世界に対する敬意のようなものになっていたのです。
あの頃の、あの感覚が、きっと僕が教師になるにあたっての重要なヒントを持っていて、
「わからない」ことが尊いことだということを、僕に教えてくれるのです。

1人の人間が、一生の間に知りえることなど微々たるものではないでしょうか。
大人になるにつれて、経験や知識を積み重ね、
「わかった」気になって、「わからない」ことへの敬意を欠く。
そのことで、世の中に対する感性が鈍くなっていくのではないでしょうか。
闇はイメージの余白であり、僕たちの世の中に対する敬意や畏怖の的だと思うのです。

全てを知り得ることほどつまらないことは在りません。
「わからない」
そのことに思う存分甘えようと思います。
子どもたちとともに僕の歩く道は、きっとそこにあるのだと思います。




感謝を




友人と話をしていて、
教師になる僕は、人の前に立つ職業なのだと改めて考えさせられました。
その時、もっともっと魅力的な人間にならなければらないと思ったのですが、
それはどうも利己的な意識が強くあ利すぎるとも思いました。
たぶん僕がこれからすること、いやより大切にすべきことは、
憎悪や恐怖心を捨てることだと思います。
それが敵でないものまで敵にしてしまうのだと思うのです。
自分の感情にどんな波が立っても、
それが考える糧になったり、
それを乗り越えることが生きるヒントになるのであれば、
やはり感謝に変えるべきだと思うのです。
でも、頭でっかちになるのだけは避けたい。
気持ちいい人間が一番ですね。
まだまだそれには、遠い気がしていますが…





9月前半はこんなところで。
本当に涼しくなってきて、あっという間に秋から冬へ。
その変化を楽しんで過ごせたら良いと思います。
それではまた9月後半で。
1週間後ですが。笑
ではでは
by keita-net6086 | 2013-09-22 16:06

2013年8月26日(8月前半)

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調理師試験の勉強を言い訳に、8月前半の更新を先延ばしにしてしまいました。
書きたいことが沢山あるのに、文字に起こす時間を優先的に考えられず、
借金を背負ったような気分でこの10日間ほどを過ごしてきました。
それくらいこの場所が僕にとって重要な位置づけにあって、
日々徐々に乱れる呼吸を整えるような、
自分が向かうべき場所を再確認するような、
そんな場であったり、時間であったりするのです。
試験を終えて、やっとこの場と向き合うことができました。
既に8月も終盤というこの時期ですが、8月前半の更新です。



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あの時聞いた言葉



ある日の真夜中。
自転車でいつもの道を、いつもの時間に走っていた時の事、
ふと、20代になりたての大学3回生の頃を思い出しました。
何故このタイミングでそういった場面を思い出すのか全く見当もつかぬまま、
その時のことを頭の中で思い巡らしたのです。
それは、僕が家路につくほんの10分かその程度の時間の話です。

僕が思い出したのは、六本木で行われた若手企業家による啓発セミナーの事です。
なぜこの企画に参加したのか、その経緯は何だかうまく思い出すことが出来ません。
しかし、このセミナーの時の10畳程の会議室の雰囲気、集まった大学生たちの醸し出す空気感、
若手企業家の本意の掴めぬ口調などを今でも明確に覚えているのは、
幸か不幸かこの時間は、僕にとって価値のあるものだったということなのだと思います。
このセミナー自体は、可能性豊かな若者にお勧めしたくなるようなものではありません。
法に触れるようなことをしているわけではないのは分かるのですが、
ちょうど、社会というものをリアルに感じ始めた時期の若者に「チャンス」を与えると言って、
その若者達の持つ自分や社会の未来に対する「期待感」を利用しようとするような感覚を覚えたのです。
少なくとも僕にはそう思えました。
なぜなら、彼らの目は対等ではないというか、少なくとも「僕たち」を見てはいませんでした。
僕たちを見る前に、彼らの目は僕たちの持つエネルギーだけを見ていました。
僕がそれまで多くの人に育まれ、僕自身も育んできた「僕であるという土壌」に彼らは目を向けず、
その土壌の中で際立って表出した、光り輝く芽だけを摘もうと考えているようでした。
そんな彼らに僕は全く魅力を感じることは在りませんでした。
むしろ、「なぜこんな魅力に乏しい人たちが成功しているのだろう?」って、
そのセミナーに参加しながら、僕は少し客観的にそう思っていたのです。

あの時の1人の若手企業家の言葉を今でも思い出すことがあります。
「わかってて動かない奴と、わかんなくて動かない奴、どっちがダメだと思う?」
という言葉です。
当然彼は「わかってて動かない奴」がダメだと堂々と語りました。
当時は感情的にしかそのことに対する反発心を抱くことしかできませんでしたが、
今でさえやっとその時のことに、

「どっちがダメでもない。」

と冷静に応えることができるのだと思います。
その若手企業家は何を持ってそう述べたのかはわからないけれど、

そんなに単純じゃない。
生きるのはそんなに単純じゃない。

と今ならそうはっきりと言いたいと思うのです。
これは当時の自分に後悔の念を抱いているわけではなく、
今僕が向き合っている多くの力ある大人たちにそう言いたいのです。
やはり、世の中に対する積極的なアプローチはお金稼ぎではないと感じています。
お金はただの副産物であって、本当に大切なことは出た芽を育むことだと思うのです。
みんなで「教育」をしよう!
と言いたいのではありません。
そういう姿勢が、最も積極的な世を良くするための施策だと思うのです。
その立ち位置にいると、
確かに今は生きるのに苦しい社会なのかもしれません。
子どもに目を向けられない精神構造を育んでしまうのだから。
大犯罪を犯した少年は「母に愛されてなかった」と、そう言ったそうです。
昨日、カフェで見たお母さんはまだ生まれて2,3年しか経っていない子に怒鳴り散らしていました。

もう、やめませんか?と言いたい。
こうなることはわかってるじゃないかと、そう言いたい。
でも、大人も子どもも、おじいちゃんもおばあちゃんもみんな人間。
それこそ、そんなに単純じゃない。
どうしたらいいのかなんて、小さな一人間である僕がわかるはずもない。
だけど、そのことに不思議と絶望感は抱いていない。
何とかなると、何とかできると、そう思っている。


あのセミナーで感じた違和感と、そこから生まれたえも言えぬ反発心は、
たぶん今でも僕を支えているのです。
あの時のあの言葉がきっかけで、僕は一つの宝物を得ることが出来ました。
それは「ピエロの筆」です。
僕は、あの時のあの言葉に対する違和感を行動に移したのです。
そう捉えれば、あのセミナーは僕にとって価値のあるもので、確かに啓発されたのかもしれません。

こんな絶望的な状況で僕がポジティブでいられるのは、
たぶん動物や植物たちの示す「理」とそばにいてくれる「仲間」の存在のおかげなのです。




言葉にするととても長いけれど、
こんなことを思ったのは自転車をこぐたった10分という時間。
湿気もなく、いつまででも自転車をこいでいたくなるような気持ちのいい夜でした。
by keita-net6086 | 2013-08-26 22:16

2013年6月15日(6月前半)

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6月中旬、本格的に梅雨の季節に突入したようです。
ジメジメとした湿気が体に纏わりつくように動きを鈍くし、
ボディーブローのように疲労を蓄積します。
植物達と同じように、準備の期間なのでしょう。
間違いなく「動く」季節ではないように思います。
そんな中僕は、モヤモヤと気が滞り、
「どうしたらいいのか?」
と常に自分に問うています。
そんなモヤモヤを今回は書き綴りました。
6月前半の更新です。



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ファミモニ



僕はおそらくこのブログでも何度も記しているように、
ペースというものを非常に重要視しています。
安定したパフォーマンスを常に引き出せるペース作りです。
今日はそのペースを作るにあたって重要なパートとなっている僕の習慣を紹介します。
それは題に記した、

「ファミモニ」

何かというと「ファミレスモーニング」です。
朝マックというキャッチ-なコピーに対抗して「ファミモニ」と名付けたのですが、
果たして市民権は得られるのでしょうか?笑
決して、「ファミチキ」から引っ張られたわけではないので。
そんな話はともかく、
僕が自分のペースを維持するにあたってこの「ファミモニ」はとても重要な役割を果たしています。

やはり、自分の活動拠点が「家」であると支障をきたすことが多いのです。
「割り切れない」という問題から逃れられません。
僕はそんなに強い人間ではないので、
リラックスし、衣食住を熟し、集中する。
そんなことをたかだか1DKの部屋の中で、自分の内側で上手に切り替えることはできません。
さっきまでそこで寝てて、次の瞬間にはとてつもない集中力を要する仕事に移れるわけがないのです。
少なくとも僕にはできません。
だから、僕は外にでます。
行先はファミリーレストランかカフェ。
目的は「ファミモニ」です。
人も少なく、静かで、
ある程度の人目もあるので、自分よがりな行動は慎まなければならないからこそ、
仕事に立ち向かえるのです。
まあでも、そんなカッコいいものではなくて、
やらなければならない状況に自分を追い込む手段の一つです。
僕は弱いですから。
お金を出してでも、自分をコントロールしなければ、
事が前に進まないのです。
周囲の友達には結構進めたりしています。
ファミモニ。
やったことが無い方は是非一度どうぞ。
朝早く行けば行くほど、
一日が豊かになります。



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僕はまだまだ進みたい



えも言えぬ停滞感に襲われることがある。
今がちょうどその時期で、やるべきことの多さと自分の低空飛行の気持とのギャップに困惑するほどだ。
なぜこんなにも気持ちが乗っかっていかないのか…
こういう時には、ある程度ジタバタした後、1人で冷静になってその気持ちを分析するのが最も良い解決策だと思う。
5月末辺りから、徐々に気持ちが落ちていく自分がわかっていたけれど、
そういうネガティブな自分を騙し騙しやり過ごしてきたから、
このままいったらどうなるとか、どうしたらいい方向に向かうのかとか、
陰と陽の両方からの自分へのアプローチが欠けていたように思う。
だから、今はそのツケが回ってきて停滞感に支配されている。
楽しそうなことが周りに沢山あるのに、自尊心を人質に取られて動かされているだけの様で、
周囲の人にも価値の残るようなワクワクする表現が出来ていない。
誰かのせいにする気はないけど、
少なからずこの季節が僕にもたらす影響力は小さくないように思う。
「心地が悪い。」
4月や5月の清々しい気候からの転換期。
変化はある程度「苦」を含むことも影響しているのか。
「苦」はネガティブな発想を生みやすい。
自分以外の他に対する絶望感にしばしば苛まれることがある。
それがあまりに高慢な発想だと、すぐに我を取り戻すわけだけれど、
そういうネガティブからニュートラルへの復旧作業に終始してしまうのが、
変化の時期の辛いところか。

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こういう時、
こうやって一通り分析を終えたら、自分への投資を惜しみもなく行うことが重要かもしれない。
内側が動かなければ、外側を動かす。
外側を動かしたら、冷静に内側をみる。
そうやって自分をしっかりと世の中と交信させて、
自分や周囲にとって正しい方向性を見出さなければならない。
自分が今何をやっていて、
その行動が何に結びつくのか。
その明確な答えは存在しないけれど、
大きな方向性と結びつけて、

あくまで「正しい」。

と自分に言い聞かせる。
絵を描くときの心持ちを常に忘れないようにしたい。
自分を手放して、世界に対して従順になる。
そうすれば世界の方が正しい方向へと導いてくれる。
これは甘えではなくて、
自分が繋がりの中で生きていることを再確認することで、
見えてくる方向性だということ。
自分に行き詰ったら、
自分が息苦しくなったら、

自分を手放す。

まずはそこからそうしたら、
良い方向へ歩き出す手段を掴む。
それに関しては、おそらくもう嫌というほど身につけてきているし、
今でも毎日のように模索しているはずだから、
信じる。
「自」分ならできると「信」じる。
「自信」を持つということは、先へ進むという意志を核にするということ。

僕はまだまだ進みたい。



6月前半はこんなところで。
停滞していた6月前半。
後半は精神的な飛躍を遂げて、
梅雨明けの動きに備える準備を整えたいと思います。
いよいよ見えてきた発展的なあれこれ。
世の中や自分を取り巻く環境の変化の中を、
軽快に、清々しく走っていこうと思います。
それではまた6月後半に。

ではでは
by keita-net6086 | 2013-06-15 16:24

2013年4月18日(4月前半)

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ジャケット一枚で外を気持ちよく歩ける季節がやってきました。
僕自身、その気候の変化によって表情を変える街や自然の風景に対するセンサーが以前よりもずっと強くなっていて、
最近では、律儀に気になった植物や鳥の名前を調べたりもします。
精神的には、どうすれば自分自身が安定した状態を維持できるか常に模索しているので、
自然に安定できてしまっているというか、
そういう状態に自分を持っていくのが上手くなっている感覚があります。
安定したパフォーマンスを強く意識しているのでしょう。
でも、これは良いようで良くない面もありますね。
精神不安定になるくらいのドラマを起こさなければ次のステップへは進めませんからね。
その辺りも、一応理解してはいるのです。
でも、これから暖かくなるにつれて、
そのドラマが起きそうな予感はいくつもあります。
今はそれが楽しみで仕方ないです。
そんな自分への期待を込めたこの時期、4月前半の更新です。



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ドラマの予感 その1 須藤農園




昨年の12月、友人の俊介君(ピエロの筆羅久井ハナの旦那さん)に紹介してもらって以降、
須藤農園を営む須藤さんとは、親しく、いや本当に親しくお付き合いさせてもらっています。
まだ、たった4ヶ月程度のお付き合いにもかかわらず、須藤さんは僕みたいな若造と対等に接してくださって、
須藤さんからの信頼も感じることが出来ているので、とても嬉しく思っているのです。
もちろん、信頼されている以上、僕は責任を持って働かなければなりません。
そう須藤さんは、教師を目指すにあたって、一度は農業、つまり生産の部分でしっかりと勉強しなければならないと考えていた僕に、
快くそのステージを与えてくれた人なのです。

先日須藤農園で催された「羊を食べる会」は27年間生きてきた僕にとって、1つの大きなドラマでした。
まだまだそれを整理するには至ってないけれど、「現実」を知ったという感覚を覚えました。
あの場所で起こったこと全てがシンプルで、たぶん僕たちは人が人のために作った不自然さにだいぶ飼いならされているのだと思います。
本気で食の世界に首を突っ込むと、行き着く先にあるのは、僕たちの生きることの底辺を支える、菌や微生物の話になってくるから、
そこのところをもっともっと勉強しなければならないのだと強く感じます。
まだ温かい、脳、心臓、肝臓をいただきました。
本当に、これほど命を食べたという感覚を味わったことはありません。
南米では、ちゃんと天国に行けるように、命を絶つ前後に葉巻を吸わせるそうです。
その画をみて、僕はまだまだ甘ちゃんの甘ちゃんでしかないと、本当に本当に思いました。
僕にはもっともっと多くのドラマが必要で、
この場所でこれから起こるドラマや経験のすべてが、
教師を目指す僕にとって貴重で、尊いものとなるでしょう。
生産、出荷、加工、商品開発等、
しっかり勉強させてもらおうと思います。




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ドラマの予感 その2 制作




これから増々忙しくなりそうですが、7月締め切りの大きなコンペへ向けて、
50号の絵を1枚仕上げようと考えています。
その制作開始の先陣を切って、絵のロケハンに行ってきました。
モデルさんは何とか確保できそうで、
後は撮影当日の天気がいいことを願うのみ。
できるかできないか。
そういうハラハラの上に自分を乗っけて、
様々なドラマを受け入れようと思います。
また、キャンバスと絵の具の匂いに支配された生活の日々がやってきます。
楽しみです。




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環境になる



自分自身がいい環境になれば、自然と周囲が豊かになって、その豊かさを自分自身も享受できる。
それがいい循環を生むことが最近よくわかってきて、そのサイクルは螺旋階段のように徐々に徐々に僕自身を上へ押し上げていく。
いい環境になるって、具体的に言えば人に価値のあることを施せたり、与えることができるということで、
決して自分の価値観に人を当て込んで、人や人の価値観を取捨選択したりすることではないと思っている。
僕は自分がいい環境になれるよう徹底的に勉強を続けるだけなんだと思う。
本当に教師になりたくて、
というか10年前からその道の上にのっかていて、
全ての行動が教師になるための勉強という位置づけになることで、
僕は本当に多くのことを学ぶことが出来ているし、
思考もずっと柔軟にできるようになってきた。
きっとこれは教師に就いてからも何も変わらなくて、
僕は環境として勉強を続けることで、
子どもたちが一生かけて勉強し続ける価値観に寄り添えるようになってもらいたい。
世の中が本当に広いこと、
それを学び続けることをやめた時、きっと責任や自分の充実感さえ放棄して、
良い循環にストップをかける。
子どもたちが人生の早い段階で、
螺旋階段を楽だからと言って下り始めてしまわないよう、
僕はしっかり良い環境になろうと思う。









4月前半はこんなところで失礼します。
これから本当に色々なことが起きていきそうな予感で、
この一年がちゃんと豊かに彩られるよう、
動き続けるしかないですね。
その為に、まだ部屋も頭も整理し切れていないので、
今月中には色々と整えたいと思います。
次の更新では、
そんなところを少しかけたらいいなと思います。
それではまた4月後半に。
ではでは
by keita-net6086 | 2013-04-18 10:46

2013年3月21日(3月前半)

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すっかり最近は暖かくなりました。
夜でも上着はいらない程の日もあるくらいですね。
でもまだまだ油断はできなくて、朝方は結構寒かったりします。
「こんなにも快適なものか」と、いつも春の訪れには驚かせられます。
そんな中、僕は大学を卒業しました。
達成感というよりは、充実感という感じで、
とてもいい経験をしたと、これからの自分へのプレゼントとして卒業証書を贈る気分です。
まだまだ僕は何も達成してませんからね。
これからです。
卒業式で京都に行くなど、更新が遅れてしまいました。
3月前半の更新です。



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シンプル



最近お世話になっている須藤農園を営む須藤さんに会いに行ってきました。
丁寧に畑仕事を行う須藤さんにはいつも大切なことを教えていただきます。
それは何も言葉だけでなく、その姿勢からも学びが多いのです。
しかし、僕が今回もっとも印象に残っているのは何気ない須藤さんの一言でした。

(出荷する野菜を洗いながら)
「野菜なんて、良く洗って出荷して、良く洗って食べてもらえれば薬なんて使う必要がない。」
(飼っている羊に餌を与えながら)
「元気に育って、美味しくいただきましょう。」

人の間の問題だけを考えて生きていたら、須藤さんのこの言葉に感情的な反発心を抱くかもしれません。
僕は最近、人の間の問題だけで考えていては絶対にあらゆる問題は解決しないと考えていたので、
須藤さんのこの言葉を聞いたとき、とてもシンプルだと感じました。
僕たちはとても捉えきれない、複雑環境の中で生きて生かされているけれど、
それは難しいことではなくて、
実はとてもシンプルなものだと思うのです。
良く食べて、良く生きればいい。
僕はそのような考えに、とても親しみを持てるようになってきました。
難しい問題は人間社会には沢山存在します。
でもしかし、よく食べてよく生きればいいと思うのです。
そこから離れれば離れるほど、
おそらく自分で自分の首を絞め、
責任を放棄していくのだと思います。

シンプル イズ ベスト

何度この言葉を使ったでしょう。
それでもなお、最高の言葉です。



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on bike



卒業式が終わり、地元の茨城県取手市と今現在僕が住む東京という街を自転車で走りまくりました。
車では速すぎる。
徒歩では遅すぎる。
自転車はとても心地いいスピードで、世の中を走ってくれます。
多くのものを見せてくれて、多くのものを発見し、
多くのことを教えてくれます。
僕は多分、ずっと自転車という乗り物に乗り続けるのだと思います。





3月前半はこんなところで。
精神的に落ち着いているのですが、
何故か気持ちや、計画の整理が進みません。
でも今までそういう自分と何度もぶつかってきたので、
焦らずに、
地に足をつけて進んでいこうと思います。
それではまた、3月後半に。
ではでは
by keita-net6086 | 2013-03-21 16:10

2013年2月19日(2月前半)

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春のにおいがしたかと思うと雪がふり、
安定感のない天気がいたずらに気分を刺激します。
季節の変わり目を教えてくれているようで、
いよいよ春だなと僕も動き出す準備を整えます。
大学の課程をすべて終えて、
卒業認定を待つのみとなって数日、
頭の中は未だ目まぐるしく動いているものの、
体がそれについていかない感覚を覚えます。
疲労や心労によるものではなく、
おそらく体が頭を休めようとしていて、
一度僕の全体的なバランスを取ろうとしているのではないかと思うのです。
体が先行したり、頭が先行したり、心が先行したり、
バランスのいい時なんて滅多にありませんからね。
区切りのいい今の時期、
比較的一番安定している体が、
頭と心を癒そうとしているのかもしれません。
そんなことを考えながら、
雪の降る中、暖かい部屋の中でコーヒーを飲みながらゆっくりこのブログを書いています。
少し遅れてしまいましたが、2月前半の更新です。



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安定感



先日、大学での最後の授業を終えるまで、僕は1枚の絵と必死に対峙していました。
働きもせず、ただただ絵のことを考える2週間を過ごしたのです。
制作の観点言えば追い込み、
それとは切り離した僕の心の観点で言えば、
この2週間はこれまでにないほど自分と向き合った時間でした。
そして、改めて僕は自分自身を「凡人」だと認識したのです。
「凡人」の僕はどうやったって僕の中から消えてくれません。
いつでも逃げ出す姿勢を取って、僕の気持ちをあざ笑うのです。
何に必死になったのかよくよく考えると、
絵の奴隷と化して過酷な労働を避けようとする「凡人」の説得でした。
色々な方法を試しました。
朝散歩をしてみたり、
BGMを色々試したり、
時間を決めて外に朝食を取りに行ったり、
丁寧にコーヒーを淹れたり、
割り切って映画を観たり、
睡眠時間を決めて昼寝をしたり…
「そんなことやってないで絵を描け!」
と僕の頭が理屈を並べて心と体を責めるのですが、
やはり理屈だけでは無理なのです。
どうやったって、全てのバランスが取れた本物の集中力は2~3時間しか持ちません。
また10分休んで、2~3時間というわけにもいかないから厄介なのです。
これはもう数々の制作、勉強を通してはっきり分かっていることです。
僕はその程度の人間なのです。
僕は自分自身をそう認識した後、
その割り切った部分に生まれてきたのが「安定感」でした。
「頑張る」
「自分を追い込む」
こういう言葉を使うのは、日本人の美徳に触れます。
しかし、もう僕は自分と真剣に向き合い多くの話し合いを重ねた結果、
そこに価値を見出すことはなくなりました。
僕について言えば「絵」が求めてくることに対して、
いつでも高いパフォーマンスを発揮できるように、
出来るだけ自分を安定させておくことが重要課題なのです。
夜更かしや、食を軽視して、その安定感を欠くものなら、
それは絵に対する敬意の欠如でしかありません。
もう、
「自分頑張ってる」
「自分のいい経験になる」
なんて考えは卒業してしまったようです。
僕がこれから求め続けるのは、高いパフォーマンスを維持できる「安定感」です。

最近、『』という映画を観ました。
小栗旬君と長沢まさみが主演の日本映画ですが、
原作の漫画が大好きだったので観たところ、
まあ実写化に有りがちな断片継ぎ接ぎ映画でした。
それが良いか悪いかはわかりませんが、
山岳救助隊が人命と向き合うための「安定感」の重要性はよく描かれていました。
プロは充実感という気持ちの上に立って、感情をクッと飲み込んで、
向き合うものが求めてくる、要求に高いパフォーマンスを返す。
その為に、人が亡くなろうが、傷つこうが、
良く寝て、良く食べる。
自分の大きな人間観を支えるために、安定感を求める。
この映画を見てこんなことを感じたのは、
僕に内側に「安定感」という釣り餌を好む魚がウヨウヨしていたからでしょう。



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これからの僕



25歳の時からなぜか27歳はいい年になる、
気が向いてくるだろうという予感がありました。
26歳に対しては何も感じなかったのに、
27歳は何故か確信に近い希望が持てたのです。
僕は自分の感覚の「何となく」を信じたり、分析したりするのが好きなのです。
その27歳も残り半年になりましたが、未だ気が向いてきていると感じています。
今までの半年間が良かったのかどうかは、後々わかってくるのだと思います。
これから目に見える良い出来事が起こるのか、
後々価値の出始めるようなことを経験するのか、
それを楽しみに残りの半年も過ごします。
これは運任せのように聞こえるかもしれませんが、
僕の感覚ではそれは少し違うのです。
「気が向く」というのは、
この世界に満ちている気を上手に自分の意志と同じ方向に向けることが出来るということです。
そのためには、あらゆる気に対して丁寧に接しなければならない。
それができる資質が、今身に付きつつあると感じています。
いや、そのくらい自分が見えてきているということかもしれません。
僕の周りの気と僕の気を同じ方向に向ける、
そうすればきっと、
僕にとってとても価値のあることと出会うのだと信じたいのです。



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ピエロの筆HP「column」から引用)



2013年2月、僕が学んでいる京都造形芸術大学での最後の授業があった。
たった3日間の授業だったけれど、卒業制作の絵を仕上げるという大きな役割を担っていた。
学生は皆、この最後の3日間で絵を仕上げるつもりなどなく、
授業の日が来るまで必死になってあのでっかい100号キャンバスと向き合ってきているようだった。
もちろん僕もその一人だけれど、
授業の3日間で作品の精度を上げるためにとことんやってやろうと意気込んで京都に乗り込んだ。

授業が始まり、自分でも驚くほど慣れた手つきで制作の準備にかかり、筆を入れ始めた。
数か月間付き合ってきた絵だから、細部に至るまでどこがどうなっているかは把握している。
まだ足りない部分、仕上げていい部分、それがはっきり分かっていた。
だからこそ、細部の細部まできっちり仕上げてやろうと、周りには目もくれず画面と向き合った。
周りで沢山の学生が同じように制作に取り組むものの、僕の集中力は素直に画面に注がれた。
制作の中でもスポーツの試合のようにその日の調子というものがあるが、
その日は間違いなく調子のいい日だった。

そのように気持ちよく充実感をもって最後の授業に臨んでいると、
この4回生の1年間、ずっと僕の担当をしてくれていたY先生がやってきた。
このY先生が担当じゃなかったら、僕の絵や表現における幅は今に至らなかったと思う。
信頼のおける先生だ。
そんなY先生に一か月ぶりに絵を見せて、何を言われるのだろうと少し気を張る僕に、
先生は京都なまりの柔らかい口調でこう言った。

「渡辺、満足いったか?」

「ん~いや、もうちょっと…」

「もう描いたらあかんで。」

「…えっ!?」

予想だにしない言葉を投げかけたY先生の顔を見て、僕はボーッと立ち尽くした。
先生は僕の表情とは対称的に少しだけニヤッとした後、真剣な面持ちでこう続けた。

「もう余計なことしたらあかん。ここまで積み重ねてきた微妙な色調を、ここで壊したらしゃーないやろ。」

「はあ…」

描画禁止令を出された僕は、はっきり言って完全に消化不良だった。
描く意欲満々だった僕の気持ちは完全に行き場を失った。
先生の言葉に戸惑い、企画された飲み会もキャンセルし、夜学校が閉まる20時までずっと自分の絵を眺めていた。

翌日も禁止令を出された僕は、気持ちが落ち着かないまま、やることもなく時間を持て余した。
コーヒーを飲み、煙草を吸い、自分の絵を何度も眺め、先生に言われたことの真意を考えていた。
僕の気持ちは、禁止令を出されながらも片づけられない画材たちによく表れていた。
僕の顔を見るたびに先生はニヤッとして、

「描いたらあかんで」

と言った。
最近煙草の量が極端に減った僕が、いつも以上の煙草を手にとった。
喫煙所でボーっとして時間を持て余すしかなかったからだ。
造形大は瓜生山という山の地形を生かして建てられているから、
学校のどこからでも京都の盆地を見渡せるいいロケーションにある。
もちろん、僕が足しげく通う喫煙所もそうだった。
煙草を吸いながら、京都の街や遠くの山並み、空、学校に茂る木々を見るのが好きだった。
あまりの心地よさが、禁止令からもたらされたモヤモヤを徐々に和らげ、解消しかけたその時、
ある言葉が僕に降ってきた。

「複雑」

そう、喫煙所でボーっと煙草を吸う僕の目に映るすべてのものが複雑に見え、
それでいて美しかった。
僕たちは同じ太陽の下で多くのものを見ている。
太陽に照らされるとそれぞれが固有色を存分に発揮し、その照り返しが響きあってとても複雑な調和が生まれている。
僕たちはその複雑でとても美しく調和した光に包まれて生きている。



絵の具を混色すればするほど、色が響きあい、
そこから生まれた予測不能な偶然からのみ生まれる調和だけが真実だった。
おそらく僕たちは真実から逃れることはできない。
その複雑さから目をそらし、記号化されたものだけを受け入れることは、
とても矛盾した乏しい生き方だと感てしまった。


どうやら僕たちは、物事が複雑であればあるほど美しいと感じるらしい。
記号化され、コントラストのつよいものは分かりやすく、
理解する側に何の負担もかけないから、親しみやすく受け入れやすい。
それは「好き」や「面白い」という部分では力を発揮するけれど、「感動」や「美しさ」まではとても到達しない。
以前に「100」というコラムで書いたように、
「感動」は捉えきれない大きなエネルギーだと思う。
そしてそれは、価値観を揺さぶるものなんだ。

感動や美しさに対して僕たちが出来るのは、
分析や探求に過ぎず、理解することはもちろんのこと、捉えきれるような小さなものではない。
僕たちのセンサーでは全てを感知しきれないほど複雑で、大きいものなんだ。



そう思うと、Y先生の描画禁止令がストンッと腑に落ちた。
僕が最後に仕上げでやろうとしていたことは、絵の精度を上げ、質を高めるためのものではなく、
僕自身の気持ちの補充に過ぎなかった。
「これでいいのかな?」
という自分の不安を慰めるためのものだった。
そう、絵は十分に完成していたんだ。
学校に来て禁止令が出されるまでに描いた部分が、何の効果も発揮されていない。
そのことに気付いた時、
自分の愚かさに笑った。
僕はまだまだ未熟で、未完成で、取るに足らない。
それを実感したけれど、僕が今見ているものは絶望ではなく、希望でしかない。
今は手に取るものが全てキラキラ輝いて見える。


絵は本当に僕を大きくしてくれました。
僕にとってはやはり、一番尊い表現活動です。
いや、それは僕にとってだけの事ではないでしょう。
顔料が施された一枚の木の板、布っきれに何十億円という価値が付けれられるのだから。
他に類を見ない、価値観の投影だと思います。
そう、絵は価値観を表現し、見るものによって価値観を投影され、価値観をつくります。
尊ぶべき表現活動なのです。
この4年間、その表現に身を捧げました。
得るものはあまりにも多く、まだまだそれを捉えきれません。
絵は世界と共鳴しながら存在します。
絵を描くことは世界を捉えるということなのです。
絵を描くものに求められるのは、
世界の約束事を抽出するちから。
僕はこれからも、絵と世界に多くのことを学んでいきます。
ここからが本当のスタートなのでしょう。






2月前半は学校が終わったこともあり、張り切って書いちゃいました。
この2月中に色々な計画を立てて、
春からの活動に備えたいと思います。
これまで、勉強してきたせいか少し神経質な記事が続いたので、
もう少しラフな投稿もしていけたらと思います。
それではまた2月後半に。
ではでは
by keita-net6086 | 2013-02-19 13:05

2013年2月6日(1月後半)

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更新が遅くなってしまいました。
書きたいことが沢山あるはずなんですが、
今僕が持っている時間のすべてを、
絵を描くためだけに使いたいので、
これだけしかできません。

あと少しです。
終わったらちゃんと書きます。
ではでは
by keita-net6086 | 2013-02-06 17:55

2013年1月14日(1月前半)

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一週間前に年をまたいで2012年最後の更新をしたばかりですが、
2013年のスタートを切る更新です。
改めて、今年もよろしくお願いします。

寒さが落ち着きをみせていますね。
寒いことは寒いのですが、「こんなもんか」と少しなめてかかっている自分がいるので、
そのうちに痛い目にあいそうです。
今は本当に大事な時期なので体調の管理だけはしっかりとしなければなりません。
今体調を崩したら、ちょっとやばいです。
大事な卒業制作の追い込みの時期ですからね。
精神的には落ち着いているので、
このままやるべきことを着々と進めていくだけですね。
頑張りましょう。
そんなこんなで、1月前半の更新です。



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Stranger than paradise


という映画を見ました。
その名の通り、とても不思議な雰囲気をまとったアメリカ映画で、
アメリカってよりヨーロッパ臭が強い感じがしました。
まあ主人公はアメリカに住むハンガリー人ですから、
そのよくわからん設定の多くが、妙にナチュラルで、
何故か心地いいものでした。
ニューヨークという大都市ですら閑散とした描写で、
終始退廃的、虚無的な映像は、
おそらく耐えられない人が多いと思います。
寝ますね。
僕は結構この手の映画が好きで、
ボーっとみていると、ちょこちょこ僕のアンテナに引っかかってくるものがあるんです。
ただただ堪能することを許さない映画というか、
表現したい1つのことをものすごーく遠回りして出している映画というか、
要は、V・ヴェンダース的です。笑
あまりにも日常すぎる中に潜む、小さな大問題をさらっと仕上げるというか。
ちなみにヴェンダースの写真展のスタッフをしたことがありますが、
ヴェンダースは夫婦共にデカいです。笑
それはともかく、
この『Stranger than paradise』は最近僕自身が考えていたことと良くリンクしたんです。
それは、

「表現することと、堪能することのバランスをとること。」

ということです。
とにかく、この映画に出てくるメインの3人は堪能ばかりしています。
そして、その堪能の仕方があまりにも不器用で、3人が一様に言葉・行動の表現がとても軽率で、雑です。

堪能することばかりに快楽を求め、
表現することを怠るがばかりに自分の吸収率が上がらず、
堪能することすら十分にできない。
そのために、表現の質が上がらず自分自身の置かれる環境が改善されない。
だからこそ、当てもなく変化も少ない堪能に快楽を求める。
または、運任せ。

僕が最近考えていたこの悪循環を、この映画は見事に表現していました。
監督・脚本がそれを意図しているかは定かではありませんが、
僕にはそう感じられたのです。
僕は質の高い表現を求めることのない堪能は、
不安の解消を目的としたものに過ぎず、
そういった堪能の先に本物の充実感はないと考えています。
本物の充実感は、堪能することと表現することのバランスが取れていて、
心がニュートラルな状態になったところを出発点にした、
その先にどこまでも広がる豊饒の大地のようなものだと思っています。
そこには、どんな種(表現)を蒔こうとも、立派な花や果実を実らせるものだと思うのです。

僕自身も、表現することを本気で意識し始めた頃から、
圧倒的に吸収率があがり、
堪能の質が著しく向上していることに気が付きます。
おそらく、そのスタートはカメラを始めた頃でしょう。
街を歩くのに、カメラを持っているのといないのとでは、
その吸収率は恐ろしい程に変わってくるのです。
これは、私自身が身をもって実感しているものです。

表現することと、堪能することのバランスをとること。
それが成されれば、おそらく自然と自分を取り囲む環境が向上していくことでしょう。
僕はそう考えています。
だからこそ、そのことを改めて自分自身に戒めて、
今年も丁寧に生きていこうと思います。

『stranger than paradise』を観て、ただただそんなことを思いました。



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表現することと堪能すること、そのバランスをとることの重要性は先に述べた通りですが、
僕にとって、その最たるものの1つに「食」があると考えています。

僕は心と体は相互作用的な関係にありながら、
バランスを保つのに非常に苦労するものだと考えています。
心と体のバランスが崩れれば、両方の表現力は著しく低下し、
人としての魅力も、説得力も失いかねません。
だからこそ人は、五感というものを最大限に利用して、外部のものを自分の内に取り入れ、
心と体のバランスを取るのだと思います。
例えば、聴覚を使って音楽を聴く。
それに視覚を加えて、映画を観る。
このように色々なものを体内に取り入れてバランスをとろうとします。
そして、その中でも全ての感覚を使って体内に取り入れ、すべてのエネルギーとなる形あるもの、
それが「食」だと思うのです。
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食が生きていく上での最低条件あることは言うまでもなく、
心と体のバランスを取るのに最も強い影響力を持つ物だと思います。
だから僕はできるだけ、わかりたいのです。
良い「食」とは何かを理解していきたいのです。
それがオーガニックとかロハスとか、
そういうものを強調すということとは違う領域です。

しかし今世の中は、あまりに「お手軽」な食に溢れているから、
その強い影響力をもつ食を、あまりにも「お手軽」に済ませられてしまう。
その為に、心と体のバランスを取るせっかくのチャンスを逃してしまいがちになるのだと思います。
少なくとも僕は、
食を強く意識することで、かなり助けられている部分があります。
作品制作など、過剰に集中力を酷使することなどがあると、
どうしても心と体のバランスが崩れてきます。
そんな時に取るしっかりとした食事に、本当に助けられるのです。
それが生活の中での良い過程(丁寧な意識)を踏んだものなら尚更なのです。

結局のところ何が言いたいのかというと、
僕は、僕という存在が多くの人の中で、いい環境でありたいと思うのです。
その為に、心と体のバランスを取らなければならない。
その最たる良法が、「食」であるということです。
巡りに巡って、そういうことです。笑
長いですね、失礼しました。

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野菜のテリーヌ モザイク風 オランデーズソース
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ローストビーフのオニオンサラダ オーロラソース
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鴨のポワレ フォアグラムース添え ポルチーニ茸の赤ワインソース

ちなみにこの料理は、友人のお祝いのために作ったものの一部。
誰にとっても重要な問題である「食」を介することは、
とてもいい循環を生みます。
実体験からの考察ですが、これは僕の教科書である『美味しんぼ』から学んだ精神でもあります。笑
なんちゃって。





まだまだ書こうと思うことがあったのですが、
ちょっと2013年のスタートということで、ちょっと張り切ってしまいました。
読む方はしんどいですよね。
既に書きすぎた感があるのでこの辺りで止めておきます。
これから、いよいよ卒業制作の追い込みです。
1月後半の更新は、そんなことが中心になるのかなと思います。
それでは改めて、今年もよろしくお願いします。
また、1月後半に。
ではでは
by keita-net6086 | 2013-01-14 20:40

2012年12月22日(12月前半)

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寒さが落ち着きをみせているこの頃、
まるで本格的な冬への準備期間を用意してくれているかのようです。
本当に厳しい寒さを迎える前のこの時期、
僕は今の目の前のことよりも、先を見据えることに重きをおいている気がします。
それはおそらく、卒業制作の100号が全過程の半分を迎えようとしているからでしょう。
しかし、精神的にはとても安定しているので、
今は着々とやるべきことをやるだけです。
更新が1週間遅れてしまいましたが、12月前半の更新です。



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卒業制作



ここからどこまでいけるのかが勝負なのです。
僕は作品を完成させるということに、
一種の恐怖に近い感覚を覚えます。
可能性が無限にあるものに、終止符を打つからです。
自分がどこで終止符を打つのか。
それが時間的制約のための終止符なのか、
納得した上での、
絵との合意の上での終止符なのか、
こわいのです。
絵は、絵になろうとするのです。
僕はその要求に従うのみで、いよいよ絵の要求が強くなってきました。
僕はその奴隷と化しています。
「その色じゃない。」
「その角度じゃない。」
僕の意志はそこにありません。
いよいよここからです。
僕の意志や外部の制約の上で、その要求を拒むことだけは避けたい。
ちゃんと絵に、

「ありがとう」

と言ってもらえるように。



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コミュニケーション



「コミュニケーション」というと、一般的に人付き合いに特化して認識される。
僕は最近、この言葉を人とのコミュニケーションのみを強調する言葉として使うことに疑問を感じている。
言葉の意味を探ろうというのではない。
コミュニケーションの正しい方法を考察しようというのでもない。
ただ、「全てがコミュニケーション」なのかなと、
最近考えるようになっただけ。
どんな仕事も、どんな行動も、どんな感情も、
全てがコミュニケーション。
例えば、仕事での技術、知識、やるべきこと。
それらは「仕事だから」とか「お金をもらっているから」とかではなく、
自分が「どうありたいか」という価値基準をもとに行われる、
最善のコミュニケーションの仕方なんだ。
全てのものに、柔軟に耳を傾けて、
全てのものと、丁寧に接し、
全てのものから、柔軟性を得る。
これがコミュニケーション。

しかし、「あらゆるものを許し、受け入れなければならない。」というわけでもない。
姿勢が大事で、
勉強することが大事で、
その姿勢を持って、
本当に大事な真ん中を掴もうとすることが大切。
大切なことは、そんなに難しいことではなくて、
意外とシンプルなこと。
けれど、僕たちは小さい頃から誰かの価値観で生かされているので、
なかなかシンプルにはなれるものではない。
シンプルになるには、訓練が必要だ。
学校を卒業したら、
シンプルに戻るための訓練をしなければならない。
その方法として、全てのものとのコミュニケーションがある。

僕は、この構図を変えたい。
小さい頃から、シンプルを掴む練習を促したい。
今の学校は、社会の価値観を植え付ける場にしてはいけない。
文部科学省の言う「生きる力」は、シンプルさを求めているから。
まずは教師がシンプルさを目指し、
できるだけ近づき、
子どもたちに、コミュニケーションへと導く。

僕は教師になったら、
それを訴えようと思う。



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大陸的価値観と島的価値観



今の僕にとって最も怖いことは、前述した卒業制作の絵だ。
それ以外に怖いことは、あまりない。
お金がないことも、仕事も、何も怖くない。
僕は自尊心を保つために、その場に注げる力は注ぎ、できる限り丁寧にやるけれど、
その姿勢を否定されたり、僕が協力・応援・手助けできないと思ったら、
潔くその場を離れるだろう。
そして、そんなの全然怖くない。
何度も言うが、僕が怖いのは、今はあのでっかい100号キャンパスだけだ。
昔本で読んだことを思い出した。
僕のこういう価値観を、「大陸的」というらしい。
そう表現されることに、
妙に納得してしまう。
島国では、「変わってるね」と言われ続ける。
変人の集まりである、美大においても。笑





12月前半はこの辺で。
次回は一週間後、または年明け新年一発目に更新しますが、
この一年を総括なんてできないでしょうから、
まあいつも通り、その時思ったこと、感じたことを書き綴ります。
一応、2012年は振り返ってみるつもりです。
それでは次号。
ではでは
by keita-net6086 | 2012-12-22 12:39

2012年11月23日(11月前半)

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更新がだいぶ遅れてしまいました。
ピエロの筆の「みんなひとりぼっち展」と学校の課題提出の追い込みが重なり、
なかなか更新に手が付けられなかったのです。
本日やっと一段落しまして、ゆっくりとした一日を過ごしています。
しかし、寒いですね。
僕は部屋の中でもかなり着込んで毎日過ごしてます。
ついこの間までは半袖を来ていたのに、驚きますね。
体がこの気温の変化にしがみついていけるよう、
丁寧な体調管理を心がけたいものです。
そんなこんなで、もうすでに月末ですが11月前半の更新です。笑



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穴ぐらに籠る日々



今年、というかここ2年くらい、穴ぐらに籠る日々が続いています。
もう、さすがに大学を卒業しなければならないから、
まず「何をするか?」の最優先すべきところに勉強があるのです。
そうなってくるといよいよ外に出ない。
自分から積極的に友人を誘うこともない。
とにかく自分の穴ぐらに籠って、やることをやる。
そんな2年間だったように思います。
それもあと4か月で終了する。

「さあ、いよいよ外へ飛び出すぞ!」

と言いたいところだけれど、今本気で取り組みたいことの多くは、
云わば「穴ぐら系」なのであまり変わらないかもしれませんね。(笑)

まあとにかく、あと4か月で生活状況が大きく変化することは間違いないので、
それを一つの転機として、
これまでの2年間とは一味違った生活を送れたらいいなと思います。
穴ぐらに精神まで籠らないように。
今はこの、残りの4か月を愛おしく、大事にするべきでしょう。



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寝ている間も考えている



11月の頭に京都で3日間、学校の授業があったので一人で車で行きました。
京都なんて気を張っていくほどでもなく、6時間ほど運転すれば着いてしまいます。
僕は運転が好きなので、苦痛でも何でもなく、
ただただ音楽を聴きながら、真っ暗な一人の世界を楽しむだけです。
落ち着く時間です。

さて本題に入りましょう。
今回の京都での授業では、いよいよ卒業制作の100号キャンパスに取り組み始めました。
1ヶ月ほど筆を握っていなかったから、でっかい100号キャンバスを前にして初日はほとんど手を付けられませんでした。
1日目の授業が終わって、モヤモヤしたまま学校を後にし、モヤモヤしたまま食事をし、モヤモヤしたまま眠りにつきました。
しかし、僕はこの自分の脳に纏わりついているモヤモヤを否定的に捉えていません。
僕にとってこのモヤモヤが果たす役割は意外と重要で、
過去数々の功績を果たしてきました。
そして今回も、僕の睡眠中にこのモヤモヤが重要な仕事をしました。

夢か現か、寝ている最中に「こう描けばいいんだ!」とわかったのです。
その瞬間、バッチリ目が覚めて、急いでそれをメモに書き留め、再び眠りにつきました。
翌朝、一気に筆が進んだ僕のキャンバスを見て、
先生や他の生徒たちが一様に、「早いねー!」と言いました。(笑)
それはそのはず、何をどうすればいいかはっきり分かっていたのだから。

正直言えば、京都での授業に臨む前、少し間抜けていた。
やらきゃいけないことが沢山あって、それに取り組んではいるのだけれど、
それはやるべきことに自分が引っ張られて動いているだけで、
全然自分の意志が乗っかっていなかった。
こういう状況で生み出されるものに、いいものは無い。
どうしても、自分がやりたいことが100%演出されていないからだ。
自分の体と脳がちゃんと機能して、やるべきことの先を歩かなきゃ、
やっぱりいいものは生まれてこない。

そんな折のこの気づきは、
「寝ている間も、ちゃんと頭は働いてくれているんだ」
と思う瞬間だった。
脳と体が臨戦態勢に入ると、
こういうことが起こりやすい。
作品作りに入ったということか。



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人間としての説得力を増すだけ



最近、生きるのが辛そうな人たちに対するセンサーが強く反応する。
僕自身、もっと若い10代の頃、20代前後、
喜びも沢山知っていたけれど、
心地よく生きていると思ったことは、ごく僅かだと思う。
今は「自分が何がしたいのか」をだんだんわかり始めたから、
悩みや苦しみの、積極的解消方法を経験的に沢山身につけている。
だから、生きるのが昔よりずっと楽しいと思える。

僕が今、そんな僕だから、
生きるのが苦しい、昔の自分のような人を見ると、
やりきれない思いに襲われる。

そういう人たちは、弱音を吐き、自分を否定する。
人は、大人は、社会は、それを「甘え」と言うかもしれない。
だけど、生きるのが苦しかった経験のある僕は、教師を目指す僕は、
それを甘えだなんて捉えてはいけない。
彼、彼女が悪いわけじゃない。
生きるのが楽しいことを、気づかせてくれる大人との出会いが、
生きる喜びを知るような快感のある刺激を得られる環境が、
たまたま無かっただけなんだ。
悪くない。
友人が自ら命を絶った。
「甘え」では片づけられない問題があると知った。
僕にできることは、
「甘え」を強制することではない。
価値観を押し付けることでもない。
多くの失敗から学んできたこと、
経験から気づいてきたことを、
話すだけ、
伝えるだけ。
彼、彼女らの生きる参考資料の一つになることだけだ。
だから僕は今、経験を積んで積んで積みまくって、
人間として、
生きる参考資料としての、
説得力を増すだけだ。





11月前半は、こんなところで失礼します。
深く考えることが沢山あって、
もっともっと書きたいのですが、
うまくまとめられていません。
1週間後には後半の記事を投稿しますが、
まあ何とか、
整理してお伝えできたらと思っています。
それではまた1週間後に。(笑)
ではでは
by keita-net6086 | 2012-11-23 14:43