2013年9月22日(9月前半)

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夏の暑さが落ち着きをみせはじめ、
半袖一枚での外出に抵抗感を持つようになってきました。
季節との付き合い方が、年々知識と経験をもとに上手くなってきていると思うのですが、
良く生きる方法とは固定化されるものではないので、
毎年違う夏、毎年違う冬と、毎年違う自分を呼応させなければならないのです。
そう考えると、重要なことは「方法論」ではなくて、
年々、知識と経験を積み重ねる自分を自画自賛する事でもなく、
如何に成長してきた自分が柔軟であれるのかということです。
9月前半は僕にとって変化の時でした。
考える時でした。
それは「苦しい時間」ではなく、おそらくこれからの僕にとっての大きなチャンスの時間なのです。
自分なりに考え、それを理解ある大切な人たちに聞いてもらい、
僕と周囲の人達が一緒になって「正解のない答え」を導く。
そして、それに対する純度の高い行動を心がけるのです。
9月は10月以降の変化に対する準備の時期となりました。
そんなこの時期に感じたいくつかの事を綴ります。
9月前半の更新です。



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重要なことは自分の外にある




僕は小学校1年生の頃にサッカーを始めました。
僕が人生で初めて一生懸命打ち込んだ、向上心を持って努力をしたものがサッカーだったと思います。
世界に浸って、面白いものだけを拾い上げて享受していた時代にサッカーが終わりを告げたのです。
それからというもの、サッカーというものに打ち込むことで自分を支えてきました。
先頭に立ってチームを引っ張り信頼されることもあれば、
その責任感が裏目にでて、人とまともな付き合い方が出来なくなることも多々ありました。
サッカーからは本当に様々なことを学びました。
1人でもボールを蹴れること。
11人じゃないとサッカーが成り立たないこと。
その間に僕はいたのです。
当時のチームメイトには申し訳ないと思いつつ白状してしまうと、僕にとって試合の勝敗はどうでもいいことでした。
もちろん、チームが勝てば嬉しかったし、負けてしまえば悔しかった。
涙を流すくらい、感情を揺さぶられる勝敗も多々あった。
しかし、それを認めた上でも大事なことは「勝敗」に無かったのです。

残念ながら、今では誰かとボールを蹴る機会はもの凄く減ってしまっているし、
ボールを蹴りたいという意識的な欲求もほとんどありません。
ただし、無意識の中で体がボールを蹴りたがることがあるのです。
のどが渇いて、水分を欲するのと同じように、
身体がボールに触れることを望むのです。

身体を使って世界を知るという経験は、たぶんサッカーが教えてくれたのです。
真冬に空気のパンパンに入った固いボールを蹴ると、足首が折れてしまいそうになるほど痛みが走ること。
真夏の焼けるような校庭の上で走り回ることの、残酷なまでの辛さ。
雨の日の試合では、ボールや自分の足に接着剤が付いたように動かないこと。
風の日の試合では、信じられないくらいボールのコントロールが利かなくなること。
これは、サッカーでの出来事ではないのです。
サッカーを通して知ることのできた、世の中の、世界の出来事なのです。

今、この僕の身体が求めるボールの先にあるのは、
自分意識的欲求を充たすものではなく、
たぶん、世界の出来事や理を体が確認したがっているということだと思います。
僕たちの身体は、僕たちの意識の持ち物ではなくて、
世界と同化するべきものですから、必然的にその秩序を確かめたくなるのだと思います。

大事なことはいつでも僕たちの外側にあるのです。
このくらいの力で蹴ると、ボールはこのくらい移動するんだ。
足のここに当てると、しっかりボールは上に上がるんだ。

こんな確認作業を繰り返すことが、
きっと大切だったりするのです。
サッカーやスポーツとは無縁の生活をしていますが、
今でもあの時培った、身体感覚が僕を支えています。
それは、世界と繋がって良く生きるためのヒントでもあるのでしょう。




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わからない




1年半後に教師になるイメージを具体的に沸かすようになりました。
教師になって具体的に何をするのか。
その時、生徒や両親の前で何を話すのか。
多くの難題に困り果てる自分が容易に想像できるのです。
その時に、いかに説得力を持って教師という存在でいられるのか。
そういう難しい課題に希望を与えるのは、
「わからない」ことを認め、それでも尚生きることに充実感を得る自分自身の姿でした。

小さい頃、
暗闇をじっと見つめ、
その奥に何があるのか、
恐怖心と不安が転じて好奇心となり、
いつの間にかそれは、世界に対する敬意のようなものになっていたのです。
あの頃の、あの感覚が、きっと僕が教師になるにあたっての重要なヒントを持っていて、
「わからない」ことが尊いことだということを、僕に教えてくれるのです。

1人の人間が、一生の間に知りえることなど微々たるものではないでしょうか。
大人になるにつれて、経験や知識を積み重ね、
「わかった」気になって、「わからない」ことへの敬意を欠く。
そのことで、世の中に対する感性が鈍くなっていくのではないでしょうか。
闇はイメージの余白であり、僕たちの世の中に対する敬意や畏怖の的だと思うのです。

全てを知り得ることほどつまらないことは在りません。
「わからない」
そのことに思う存分甘えようと思います。
子どもたちとともに僕の歩く道は、きっとそこにあるのだと思います。




感謝を




友人と話をしていて、
教師になる僕は、人の前に立つ職業なのだと改めて考えさせられました。
その時、もっともっと魅力的な人間にならなければらないと思ったのですが、
それはどうも利己的な意識が強くあ利すぎるとも思いました。
たぶん僕がこれからすること、いやより大切にすべきことは、
憎悪や恐怖心を捨てることだと思います。
それが敵でないものまで敵にしてしまうのだと思うのです。
自分の感情にどんな波が立っても、
それが考える糧になったり、
それを乗り越えることが生きるヒントになるのであれば、
やはり感謝に変えるべきだと思うのです。
でも、頭でっかちになるのだけは避けたい。
気持ちいい人間が一番ですね。
まだまだそれには、遠い気がしていますが…





9月前半はこんなところで。
本当に涼しくなってきて、あっという間に秋から冬へ。
その変化を楽しんで過ごせたら良いと思います。
それではまた9月後半で。
1週間後ですが。笑
ではでは
by keita-net6086 | 2013-09-22 16:06