2013年2月19日(2月前半)

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春のにおいがしたかと思うと雪がふり、
安定感のない天気がいたずらに気分を刺激します。
季節の変わり目を教えてくれているようで、
いよいよ春だなと僕も動き出す準備を整えます。
大学の課程をすべて終えて、
卒業認定を待つのみとなって数日、
頭の中は未だ目まぐるしく動いているものの、
体がそれについていかない感覚を覚えます。
疲労や心労によるものではなく、
おそらく体が頭を休めようとしていて、
一度僕の全体的なバランスを取ろうとしているのではないかと思うのです。
体が先行したり、頭が先行したり、心が先行したり、
バランスのいい時なんて滅多にありませんからね。
区切りのいい今の時期、
比較的一番安定している体が、
頭と心を癒そうとしているのかもしれません。
そんなことを考えながら、
雪の降る中、暖かい部屋の中でコーヒーを飲みながらゆっくりこのブログを書いています。
少し遅れてしまいましたが、2月前半の更新です。



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安定感



先日、大学での最後の授業を終えるまで、僕は1枚の絵と必死に対峙していました。
働きもせず、ただただ絵のことを考える2週間を過ごしたのです。
制作の観点言えば追い込み、
それとは切り離した僕の心の観点で言えば、
この2週間はこれまでにないほど自分と向き合った時間でした。
そして、改めて僕は自分自身を「凡人」だと認識したのです。
「凡人」の僕はどうやったって僕の中から消えてくれません。
いつでも逃げ出す姿勢を取って、僕の気持ちをあざ笑うのです。
何に必死になったのかよくよく考えると、
絵の奴隷と化して過酷な労働を避けようとする「凡人」の説得でした。
色々な方法を試しました。
朝散歩をしてみたり、
BGMを色々試したり、
時間を決めて外に朝食を取りに行ったり、
丁寧にコーヒーを淹れたり、
割り切って映画を観たり、
睡眠時間を決めて昼寝をしたり…
「そんなことやってないで絵を描け!」
と僕の頭が理屈を並べて心と体を責めるのですが、
やはり理屈だけでは無理なのです。
どうやったって、全てのバランスが取れた本物の集中力は2~3時間しか持ちません。
また10分休んで、2~3時間というわけにもいかないから厄介なのです。
これはもう数々の制作、勉強を通してはっきり分かっていることです。
僕はその程度の人間なのです。
僕は自分自身をそう認識した後、
その割り切った部分に生まれてきたのが「安定感」でした。
「頑張る」
「自分を追い込む」
こういう言葉を使うのは、日本人の美徳に触れます。
しかし、もう僕は自分と真剣に向き合い多くの話し合いを重ねた結果、
そこに価値を見出すことはなくなりました。
僕について言えば「絵」が求めてくることに対して、
いつでも高いパフォーマンスを発揮できるように、
出来るだけ自分を安定させておくことが重要課題なのです。
夜更かしや、食を軽視して、その安定感を欠くものなら、
それは絵に対する敬意の欠如でしかありません。
もう、
「自分頑張ってる」
「自分のいい経験になる」
なんて考えは卒業してしまったようです。
僕がこれから求め続けるのは、高いパフォーマンスを維持できる「安定感」です。

最近、『』という映画を観ました。
小栗旬君と長沢まさみが主演の日本映画ですが、
原作の漫画が大好きだったので観たところ、
まあ実写化に有りがちな断片継ぎ接ぎ映画でした。
それが良いか悪いかはわかりませんが、
山岳救助隊が人命と向き合うための「安定感」の重要性はよく描かれていました。
プロは充実感という気持ちの上に立って、感情をクッと飲み込んで、
向き合うものが求めてくる、要求に高いパフォーマンスを返す。
その為に、人が亡くなろうが、傷つこうが、
良く寝て、良く食べる。
自分の大きな人間観を支えるために、安定感を求める。
この映画を見てこんなことを感じたのは、
僕に内側に「安定感」という釣り餌を好む魚がウヨウヨしていたからでしょう。



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これからの僕



25歳の時からなぜか27歳はいい年になる、
気が向いてくるだろうという予感がありました。
26歳に対しては何も感じなかったのに、
27歳は何故か確信に近い希望が持てたのです。
僕は自分の感覚の「何となく」を信じたり、分析したりするのが好きなのです。
その27歳も残り半年になりましたが、未だ気が向いてきていると感じています。
今までの半年間が良かったのかどうかは、後々わかってくるのだと思います。
これから目に見える良い出来事が起こるのか、
後々価値の出始めるようなことを経験するのか、
それを楽しみに残りの半年も過ごします。
これは運任せのように聞こえるかもしれませんが、
僕の感覚ではそれは少し違うのです。
「気が向く」というのは、
この世界に満ちている気を上手に自分の意志と同じ方向に向けることが出来るということです。
そのためには、あらゆる気に対して丁寧に接しなければならない。
それができる資質が、今身に付きつつあると感じています。
いや、そのくらい自分が見えてきているということかもしれません。
僕の周りの気と僕の気を同じ方向に向ける、
そうすればきっと、
僕にとってとても価値のあることと出会うのだと信じたいのです。



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ピエロの筆HP「column」から引用)



2013年2月、僕が学んでいる京都造形芸術大学での最後の授業があった。
たった3日間の授業だったけれど、卒業制作の絵を仕上げるという大きな役割を担っていた。
学生は皆、この最後の3日間で絵を仕上げるつもりなどなく、
授業の日が来るまで必死になってあのでっかい100号キャンバスと向き合ってきているようだった。
もちろん僕もその一人だけれど、
授業の3日間で作品の精度を上げるためにとことんやってやろうと意気込んで京都に乗り込んだ。

授業が始まり、自分でも驚くほど慣れた手つきで制作の準備にかかり、筆を入れ始めた。
数か月間付き合ってきた絵だから、細部に至るまでどこがどうなっているかは把握している。
まだ足りない部分、仕上げていい部分、それがはっきり分かっていた。
だからこそ、細部の細部まできっちり仕上げてやろうと、周りには目もくれず画面と向き合った。
周りで沢山の学生が同じように制作に取り組むものの、僕の集中力は素直に画面に注がれた。
制作の中でもスポーツの試合のようにその日の調子というものがあるが、
その日は間違いなく調子のいい日だった。

そのように気持ちよく充実感をもって最後の授業に臨んでいると、
この4回生の1年間、ずっと僕の担当をしてくれていたY先生がやってきた。
このY先生が担当じゃなかったら、僕の絵や表現における幅は今に至らなかったと思う。
信頼のおける先生だ。
そんなY先生に一か月ぶりに絵を見せて、何を言われるのだろうと少し気を張る僕に、
先生は京都なまりの柔らかい口調でこう言った。

「渡辺、満足いったか?」

「ん~いや、もうちょっと…」

「もう描いたらあかんで。」

「…えっ!?」

予想だにしない言葉を投げかけたY先生の顔を見て、僕はボーッと立ち尽くした。
先生は僕の表情とは対称的に少しだけニヤッとした後、真剣な面持ちでこう続けた。

「もう余計なことしたらあかん。ここまで積み重ねてきた微妙な色調を、ここで壊したらしゃーないやろ。」

「はあ…」

描画禁止令を出された僕は、はっきり言って完全に消化不良だった。
描く意欲満々だった僕の気持ちは完全に行き場を失った。
先生の言葉に戸惑い、企画された飲み会もキャンセルし、夜学校が閉まる20時までずっと自分の絵を眺めていた。

翌日も禁止令を出された僕は、気持ちが落ち着かないまま、やることもなく時間を持て余した。
コーヒーを飲み、煙草を吸い、自分の絵を何度も眺め、先生に言われたことの真意を考えていた。
僕の気持ちは、禁止令を出されながらも片づけられない画材たちによく表れていた。
僕の顔を見るたびに先生はニヤッとして、

「描いたらあかんで」

と言った。
最近煙草の量が極端に減った僕が、いつも以上の煙草を手にとった。
喫煙所でボーっとして時間を持て余すしかなかったからだ。
造形大は瓜生山という山の地形を生かして建てられているから、
学校のどこからでも京都の盆地を見渡せるいいロケーションにある。
もちろん、僕が足しげく通う喫煙所もそうだった。
煙草を吸いながら、京都の街や遠くの山並み、空、学校に茂る木々を見るのが好きだった。
あまりの心地よさが、禁止令からもたらされたモヤモヤを徐々に和らげ、解消しかけたその時、
ある言葉が僕に降ってきた。

「複雑」

そう、喫煙所でボーっと煙草を吸う僕の目に映るすべてのものが複雑に見え、
それでいて美しかった。
僕たちは同じ太陽の下で多くのものを見ている。
太陽に照らされるとそれぞれが固有色を存分に発揮し、その照り返しが響きあってとても複雑な調和が生まれている。
僕たちはその複雑でとても美しく調和した光に包まれて生きている。



絵の具を混色すればするほど、色が響きあい、
そこから生まれた予測不能な偶然からのみ生まれる調和だけが真実だった。
おそらく僕たちは真実から逃れることはできない。
その複雑さから目をそらし、記号化されたものだけを受け入れることは、
とても矛盾した乏しい生き方だと感てしまった。


どうやら僕たちは、物事が複雑であればあるほど美しいと感じるらしい。
記号化され、コントラストのつよいものは分かりやすく、
理解する側に何の負担もかけないから、親しみやすく受け入れやすい。
それは「好き」や「面白い」という部分では力を発揮するけれど、「感動」や「美しさ」まではとても到達しない。
以前に「100」というコラムで書いたように、
「感動」は捉えきれない大きなエネルギーだと思う。
そしてそれは、価値観を揺さぶるものなんだ。

感動や美しさに対して僕たちが出来るのは、
分析や探求に過ぎず、理解することはもちろんのこと、捉えきれるような小さなものではない。
僕たちのセンサーでは全てを感知しきれないほど複雑で、大きいものなんだ。



そう思うと、Y先生の描画禁止令がストンッと腑に落ちた。
僕が最後に仕上げでやろうとしていたことは、絵の精度を上げ、質を高めるためのものではなく、
僕自身の気持ちの補充に過ぎなかった。
「これでいいのかな?」
という自分の不安を慰めるためのものだった。
そう、絵は十分に完成していたんだ。
学校に来て禁止令が出されるまでに描いた部分が、何の効果も発揮されていない。
そのことに気付いた時、
自分の愚かさに笑った。
僕はまだまだ未熟で、未完成で、取るに足らない。
それを実感したけれど、僕が今見ているものは絶望ではなく、希望でしかない。
今は手に取るものが全てキラキラ輝いて見える。


絵は本当に僕を大きくしてくれました。
僕にとってはやはり、一番尊い表現活動です。
いや、それは僕にとってだけの事ではないでしょう。
顔料が施された一枚の木の板、布っきれに何十億円という価値が付けれられるのだから。
他に類を見ない、価値観の投影だと思います。
そう、絵は価値観を表現し、見るものによって価値観を投影され、価値観をつくります。
尊ぶべき表現活動なのです。
この4年間、その表現に身を捧げました。
得るものはあまりにも多く、まだまだそれを捉えきれません。
絵は世界と共鳴しながら存在します。
絵を描くことは世界を捉えるということなのです。
絵を描くものに求められるのは、
世界の約束事を抽出するちから。
僕はこれからも、絵と世界に多くのことを学んでいきます。
ここからが本当のスタートなのでしょう。






2月前半は学校が終わったこともあり、張り切って書いちゃいました。
この2月中に色々な計画を立てて、
春からの活動に備えたいと思います。
これまで、勉強してきたせいか少し神経質な記事が続いたので、
もう少しラフな投稿もしていけたらと思います。
それではまた2月後半に。
ではでは
by keita-net6086 | 2013-02-19 13:05